Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

自分に一貫性がなくてもいい。キャラを捨てる

人間は一貫性がないと気持ち悪く感じてしまうものである。例えば、昨日と今日で言ってることがまるで違う人をイヤに思ってしまうだろう。多分、脳の仕組み的に予想と結果が違うと不快感を覚える機能があるのだろう。 なので、自分についても一貫性を保ちたがるものだ。顕著なのは周りからの評価に従おうとすることだろう。例えば、周りから秀才だと思われているのであれば日頃から馬鹿な発言はしなくなってしまうし、秀才であり続けようとする。実はもっとふざけた事言いたいのに、と思っても翌日からいきなりキャラを変えることができない。 だが、別に一貫性なんてなくていい。世の中が不変なら常に同じ状態でいたほうがいいかもしれないが、そういうわけにはもちろんいかないので、状況に応じて変わっていければよい。むしろ一貫的でないほうが、自ら変化を起こしやすいだろう。世の中には一貫した出来事はたくさんあるが、それらはあくまで物理面や過去。物体は高いところから低いところに落ちる、という法則や、AがBをした、という事実的なことだ。精神的なことや人の思考は非常に移ろいやすい。だから、状況に応じて自分の”キャラ”は変えていいし、周りの評価を気にしても仕方がない。 第一段階として、付き合う人に応じてキャラを変えてみるものいいかもしれない(すでにそうしている人も多い)。会社でのキャラと、趣味の場でのキャラを変えたりなどだ。なんかいつもと違って気持ち悪いな、と思うかもしれないけど後ろめたく思わなくても良い。自分を殺してしまうよりは、積極的にありのままの自分を出していこう。

時間がない、はただの言い訳である

忙しいと時間がないと思ってしまうけど、意外に時間はあると思う。例えば、まったくダラダラしていないかといえばそうでもない。ちょっときばらし、なんて言いながら横になったりどこかでかけたりもする。測ってみるとわかるけど、そういうのは思っているよりも時間を食ってしまっているし、1回あたりはわずかな時間だとしても、ちりも積もればなんとやらである。 私は五分ごとにライフログをつけているのだけど、一週間ごとに振り返って数値を見ているのだけど、めちゃくちゃ休憩しているしダラダラしていて、仕事している時間も想定より短すぎる。勉強もあまり時間をかけきれていない。あと、突出しているのが生活カテゴリ(掃除や食事など)で、無駄な時間の使い方をしていると実感する。 世の中にはもっと忙しい人もいるだろう。例えば一国の首相なんかは本当に忙しいんじゃないだろうか。テニスの錦織圭選手も銅メダルとった3日後にはツアー大会と、かなり忙しいと思う。で、私は忙しいといいながら、彼らより忙しいのかというと、絶対そうではないはずだ。だから、まだまだ時間は圧縮できるということ。不要なものはなるべくそぎ落として時間をどんどん見つけていく。あとは、時間があってもだらけてしまわないこと。これについてはモチベーションに頼らない、仕組みを作ることが課題になる。兎に角、時間がない、というのはただの言い訳なのである。

時代に名を残す必要はない。「普通」に生きる。

時代に名を残したい、あるいはそれに準ずる「世間に埋もれたくない」という気持ちは、所詮他人からの承認を求めているだけで、危うい考え方である。何を成し遂げるかではなくて、結局は他人からどうみられたいかという人目を気にする低次元の承認欲求だ。名を残したい、特別なことをしたい、とおもって生きている人に限ってたいてい何も成し得ない。

だからあえてそういう特別なことは気にしなくても良い。かのゲイツジョブズは有名になりたい一心でMicrosoftAppleを創ったわけでは絶対にないはずだ。彼らはそれぞれ自分のやりたいことにのめり込んで入っただけにすぎない。彼らはその熱量がすごくて結果も出したので、歴史に名を残すほどに有名になっただけでそれはただの結果論だ。事業に失敗していれば、もしかすると、「普通」の人生を歩んでいたかもしれない。だからといって彼らの素晴らしさは否定されるわけではない。時の運というものもある。「普通」か「特別」かというのはあくまで他人から見た相対的なものなので、気にすることはない。歴史に名を残せる人なんで一握り。だから変な虚栄心は捨て、まずは「普通」に生きる覚悟を持つべきだ。(普通、という言葉は嫌いだが、ここでの普通は特別の対義語として。)

自信や不安は幻想である

基本的に、”自信”はあるほうがいい。大勢の前でのプレゼンや、大事な取引先との商談など、自信があれば態度にそれが表れ、堂々とできるし、相手側もその余裕を感じて安心するだろう。逆に、ここ一番というときに自信がない場合は、一種の不安状態に陥るだろう。ちゃんと自分は出来るのか、と自信を失った状態だと余裕もなくなりおどおどした態度にもなる。ひどい場合だと、いつもはきちんと出来ていることもできなくなり、更に自信をなくすという負のループにも陥る。

だが、そういう自信や、自信がないことによる不安は幻想にしか過ぎない。人は必死になれば、自信があるとかないとかは関係なくなる。考える余地がある分、つまり余裕がある分だけそういうことに悩んだりするものなのだ。それに、自信があろうがなかろうが、その時できるベストをつくすべきなのは変わらない。初めてする行為より、何回かやったことがある行為がうまくいくのは、それは自信があるからということではなくて、経験があるからうまくいくだけだ。 自信がなくとも、取引先で話をするときは堂々としたほうが絶対にいいし、知らないことは知らないからあとで調べて答えるなどの回避策も駆使したらよい。自信がないことをいいわけに、ベストを尽くさないのは、失敗した自分を見せたくないという、過剰な自意識だ。そんなのはどうでもいいから、今出来うることを最大のパフォーマンスで愚直にやるべきだろう。

私自身もなかなか踏み切れないことがあるので、自分に言い聞かせるために書いた。

低次元の承認で満足した人の成れの果て

先日、下記の記事を書いたが、今回は「低次元の承認で満足し続けるとどうなるか」を書く。

murabito-rx.hatenablog.com

低次元の承認は麻薬

低次元の承認は、我々は小さいころから与え続けられている。子供の頃は些細な事でも親や祖父祖母からは褒められるものだし、もちろん、宿題をきちんと終わらせたり、テストで良い点をとっても褒められる。褒められるというのは実に心地が良い。生きている意味を感じるし、身近なコミュニティにおける自分の役割やアイデンティティだって感じることができる。なにより、ただただ心地がいい、気持ちがいい。 だがそれは、裏を返せば褒める側に生き方を誘導・制限されているだけに他ならない。「叱るのはだめだ、褒めて伸ばす」というような教育は本来教育ですらない。その教育方法は、褒めるという麻薬によって、褒める側が描く理想の生き方を強いているだけなのだ。(人は、自分の行動が正しいかどうか、自分で判断できるようにならなければいけない、それが教育だ)

いわゆる親や周囲が用意したレールに載せられるのは、低次元の承認(麻薬)によってコントロールされているからなのだ。

認められなくなったら終わり

だが、その用意されたレールの上を歩こうとも、人生は必ずうまくいくわけではない。例えば、受験戦争や就職活動での失敗だ。言われたとおりこなしてきたはずなのに、受験に失敗して浪人してしまう。それでもうまくいかない。しびれを切らした親は叱責や罵声を浴びせてくる。子供は良い子にみられたくて、言われたとおりにしただけなのに、期待したこととは裏腹に、親から承認されないしプライドも傷つく。今まで他人による評価のみで正悪を判断してきたので、自己評価という術も知らず、自分は傷ついたまま。 その結果、現実逃避のために、非行や暴力、最悪の場合自殺という選択肢を選ぶ。親・周囲・他人から認められない=自分の存在価値がない、と判断し、どうにかして構って欲しいと考えた結果、そういう行動に出てしまうのである。そこから挫折を経て、社会に出れる人もいれば、立ち直れず引きこもりやニートになってしまう人もいる。

周囲に褒められ続けるとどうなるか

逆に、幸運にも(私は不幸だと思うが)、他人から認められ続けている人もいる。そういう人はかなり厄介だ。まず、そういう人間は縦社会の人間だ。自分が如何に素晴らしいか、というのを認められて欲しいと常に思っているため、基本的に誰彼構わず「自分が上だ」というマウンティングをしてくる。過去の自慢話、武勇伝をしょっちゅうしてくる輩がいると思うが、動機は同じだ。どうしても実力で敵わない相手の場合は、媚を売り、できるやつだと認めてもらおうと努める。上にはヘコヘコ、下には厳しいという若手からすると嫌な手合だ。 もちろん、自分で自分の評価はできず、他人からの評価ばかり気にするので、例えば、言うことが二転三転する。見下している人の意見については駄目だしをするのに、著名な人や有名な人からの意見は平気で鵜呑みにする。 最終的に、彼らがどうなるかというと、結局他人から尊敬を得ようと四苦八苦するのは変わらないのだが、どんどん規模が大きくなってくる。実は、他人から認められ続けるというのはある意味限界があるのだ。幼少期、自分で歯を磨いたり、着替えたりできればそれは褒められたものだが、大人だと身の回りのことは出来て当たり前だろう。つまり、歳をとるごとに周囲の期待のハードルの高さは比例し、それに応えようとするとどんどん大掛かりになっていくのだ。だが、いずれ、他人の期待を裏切ってしまう時がくる。褒められ続けた人間は、実力が伴わないからだ。彼らは何を成し遂げたかよりも、他人にどう見られるかのみを気にしてるので、表面的なことしかできない。だから実力がない。なのにもかかわらず、持ち上げられて大掛かりなことをしようとする。 例えば政治活動や人材教育など、社会的大義があるものをやろうとする。無論、まじめに自己実現としてやっている人もいるが、そのなかの「胡散臭い人」は周りからの尊敬を得るためだけにやっているのである。何が言いたいかというと、そういう人たちは実力もない上に、見た目しか気にしていないため、ろくなことにならない、ということだ。政治活動や人材育成にしろ、人を大いに巻き込む。そこで他者からの注目をあつめるための利己的なことばかりをしていては、そのコミュニティに所属してしまった人は大損である。下手をすると日本全土を巻き込む恐れもある。 そういう"モンスター"を作り出さないためにも、褒めて育てるというエセ教育から脱却していく必要がある。

承認欲求を満たす2つの方法とその違い

承認には2つの種類がある。他人からの承認と自分自身による承認だ。他人からの承認は低次元であり、自分自身による承認は高次元である。マズローは低い承認のレベルにとどまり続けるのは危険だとしているが、承認欲求を満たすにあたり、残念ながらほとんどの人は低次元の承認を求めてしまっている。

自己実現理論 - Wikipedia

なぜ低次元の承認は危険なのか

低次元の承認=他人からの承認とは、上記ページにあるように、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などだ。一見、どこが危険かわかりにくいが、これらは全てコントロールできないことなのだ。つまり、この承認をいくら追い求めても、得られない可能性を孕んでいる。例えば、他者からの尊敬。どれだけ自分が素晴らしい振る舞いをしていても、尊敬されるかどうかは全く予測も制御もできない。道端に落ちている空き缶を拾ったとしても誰も見ていないかもしれないし、見ていてもなんとも思ってないのかもしれないのだ。他人からの承認を求めつづけていても、たまたまうまくいくこともあるだろうが、ずっと満たされつづけることはあり得ない。子供の頃は何しても褒められた(承認された)もんだが大人になっても褒められ続けるわけはない。他人の顔色を気にして生きるのもつらいが、さらにその欲求はなかなか満たされないので、自分の人生に絶望し、多数の尊敬を集めている人と自分を比べてしまい、悶々とした日々を送ることになる。非常に危険だ。

低次元の承認と高次元の承認の違い

一方、高次元の承認は、あくまで自分自身で自分を承認(評価、というとわかりやすい)することだ。低次元の承認と違い、自分の成果・やったことは正しく判定できる。自分なりに素晴らしい振る舞いができたのなら、自分自身でそれを評価できるし、空き缶を拾うとき、誰が見ていようがいまいが関係ない。自分の行動によって、自分や誰かに良い影響を及ぼすことができるかどうかを判定するのだ。これは褒められなくても感謝されなくても、やればやるだけ確実に満たされる方法だ。他人のために人助けをしたあと、その人から例え感謝されなくとも「自分はその人のために良い行動ができた」と自分自身で承認することができるのだ。 低次元の承認と高次元の承認の違いは、自分自身の評価をするかしないかである。誰から何も言われなくとも自分でしっかり自分のことを評価する。よい振る舞いができていたのならそれに満足する。仮に、褒められたとしても、それは直接受け取らず、一度自分自身で判断すること。自分自身がした行動は本当に良い振る舞いだったのかどうか。褒められたことを喜ぶのではなくて、誰かの役に立った事実を喜ぼう。(褒められた・感謝されたからといって、必ずしもその人の役にたったとは限らない、社交辞令や嫌味だってある。)

高次元の承認で欲求を満たすマインドへシフトする

低次元の承認は、他人の顔色を伺わなければならず、自分の人生が他人のためとなってしまう。高次元の承認は他人の評価は関係なく、自分自身の評価なので、納得して自分の行動を決めることができる。それが自分のための人生だ。他人の評価を気にすることは天気を気にすることに等しい。どうなるかわからない、という意味で。高次元の承認によって欲求を満たせてない人は、自分自身をしっかり見つめよう。自分のために、あるいは周囲の人間のためになる行動をしているかどうか。 あなたが落ちているゴミを拾うのは誰かが見ているからか、それとも自分自身のためか。ちょっと考えてみよう。

取引先で出されたお茶は飲むべきか飲まないべきか問題

結論:どうでもいい。 こんなことをわざわざ書くことは本来時間がもったいないのだが、表題の件にかぎらず、どうでもいいことを気にしている人をネットでしばしば見かける。見かける度に、残念な気持ちになるし、だから日本人の生産性は低いのだろうと実感する。こんなことを気にする人は、仕事をなぁなぁでやっている暇人に他ならない。取引先に出向く目的は、商談を成功させるためだったり、製品のブラッシュアップのための会議だったり様々だが、お茶を飲むことでも飲まないことでもない。つまりどうでもいいことなのだ。飲もうが飲むまいが、きっちり会議の目的を達成したらよろしい。余計な、どうでもいいことを気にするということは、取引先にわざわざ出向いている意味を理解していない。そんなことを気にするために行ってるわけではないからだ。喉が乾いていたらがぶ飲みしたらよい。 そういうマナーにうるさい取引先がいたとしても、その取引先はろくでもない。無視していい。こんなことを気にして文句をいっているヒマがあれば、スピード感がある企業は新しいアイディアを2,3個出せるし、いくつもの意志決定を済ませる。 本質的なことを追い求めていたら、どうでもいいことは本当にどうでもいいのだ。どうでもいいはずのことが、気になるのであればその分思考が分散してしまっている。例えば、家が急に大火事になってしまったら、余裕がなければたとえ裸であっても外にでることはできるはずだ。服を着てないから恥ずかしくて外に出れなくて死ぬ人なんて、いるだろうか?余計なことを気にする暇があったらさっさと目的達成してしまえばよい。仮に余裕があったとしても、そういうことを気にしないほうがいい。疲れて仕事に打ち込むリソースも減るからだ。寝ている方がまだ生産的だ。どうでもいいことはどうでもいいのだから、答え自体はどっちでもよくて、気にする事自体が間違いだ。