Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

あなたの人生の目的はなんですか?

あなたの人生の目的はなんですか?(生きる目的はなにか)

この質問に対して、即答出来る人はどれだけ居るだろうか。「生き物の本能として生存し種を残す目的がある」という答えは間違いではないが、誕生して何十世紀もの間に高度に発達し文化を築いてきた人間にとっては、原始的過ぎる答えだ。それに、本能として生きているだけであれば、高価なディナーも、綺羅びやかな装飾がされた衣服も、広い家も、格好いいスポーツカーも、それらを得るために必要なお金も欲しがる必要はない。本能としてだけならば、慎ましやかに農業でも営んで自給自足で生活すればいい。

 

何を求めて生きるのか

人は何を求めて生きているのだろうか。人生の目的とは「幸せに生きること」だ。生存することが当然のごとくできるようになってから、人間は新たなものを求め次のステージに移る。マズローが定義した5段階の欲求にあるように、更に高度なことを求める。その頂点は自己実現欲求だが、どの段階であっても、人間は「幸せ」に向かっていることになる。死に脅かされなければ、幸せ。ご飯が食べれれば、幸せ。人に認められて、幸せ。

 

何を以って幸せか

欲求が高度になるにつれて、何によって幸せを感じるかが変わってくる。仕事で成功すれば、幸せ。子供が健康に育てば、幸せ。家で怠惰に過ごせることが、幸せ。趣味で集めているコレクションが集まれば、幸せ。いちいち意識はしてないのだろうが、幸せになることを目的に個々は行動している。しかし、人間は愚かなのか、手段にかまけて目的が疎かになることもある。

 

目的と手段が入れ替わる

幸せに暮らすためにはお金が要る。お金があれば生活に困らないし、購買欲や優越感を満たしてくれる。お金を得るためには仕事をする。人よりさらに大きな金を得るために人より働く。気づくと、色々な責任を負わされている。自分が仕事をしなければ、業務が回らない。上司からの圧力もかかる。強迫観念のようなものができ、無理して働き続け、過労死に至る。働くことは、幸せになるための手段だったはずなのに、いつのまにか仕事をすることが目的と錯覚してしまった例だ。ノイローゼになるほど働くと、なかなか気づけないのかもしれないが、常に目的(幸せになること)を意識していれば、早い内に転職なり、仕事量を軽減するための策を打てたはずだ。幸せになるはずが、死んでしまってはどうしようもない。無情である。

 

幸せを意識し、一直線に向かう

幸せに向かって生きていることを実感し、何が幸せかを考えるべきだ。例えば、家族と平穏に暮らすことが幸せだ、と感じるのであればそのために一生懸命仕事に打ち込めばいいが、家族と過ごす時間が犠牲になるほど働く必要はない。

なにか野望があって、その夢を叶えることが幸せだと感じるのであれば、それに一生懸命取り組めばいい。例えば、僕は「ITという専門性をもって、誰かの役に立ちたい」と思っている。自分の得意分野で誰かの役に立てることで、承認欲求(他人からの承認だけでなく、自分自身による承認も)が満たされ、幸せを感じるだろう。それを達成するために、日頃勉強する必要もあるし、業務を雑多雑務なものばかりにしてはいけない。自ら声をあげやりたいことをやり、得意分野の技術力や知識を高めていく、そういう必要がある。このように、”幸せに生きる”という目的をを意識することで、それに向かって最短の手段を講じることができる。形振りかまってられないのだ。自分の意見が言えない、既存の価値観に縛られる、人目や体裁ばかりを気にする、そういったことに陥る暇はない。常に”幸せに生きる”という目的を見据えることを忘れず、行動を起こしつづけることが、人生では最も大切だ。