Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

周りに期待しすぎるな

年功序列な風習が根強く残る日本的感覚として、上司や経営陣は偉い、という感覚を持っている人が多い。他にも、年配の方や、親とか教師についても同様で、いわゆる目上ポジションの人たちを、偉い、と考えるフシがある。

ポジション的に上だからといって人間性が優れているわけではない

親や上司というのは、色々教えて教えてくれる存在である。親からは、小さい頃から、食事の仕方や排泄についてなどあらゆることを習ってきたし、社会人になれば上司から仕事のやり方について教えてもらう。教えてもらう行為を通して、相手のことを「偉い人」と認識してしまうだろうが、彼らは親や上司であるまえに、一人の人間であるということを忘れてはならない。自分だって、いずれ、結婚して子供を持つかもしれないし、出世するかもしれないのだ。そうなったからといって、貴方自身の本質は変わらないように、彼らだって、少し前は貴方と同じだったし、本質的には変わらないのだ。素晴らしい人間性を持つ人もいれば、そうでない人もいる。ポジション的に上であっても、その人が素晴らしいとは限らない。無論、親であろうとそうで、親は必ずしも正しい行動をとるわけでもない。間違った教育をしてしまうことだってある。

勝手に期待して、勝手に絶望するな

偉い=素晴らしい人、と間違って認識してしまい、周囲の”偉い”人に多大なる期待を寄せてしまっている人を見かける。上司がこういったから、とか上司がこうだから、とかいって、常に上司を正しいと考えてしまっている上に、自分の期待と違う行動(尊敬出来ない行為など)をすると勝手に絶望してあまつさえ凹む。目上だからといって必ずしもその人が正しいわけではないし、目上の人だからといって無条件に自分より優れているなんて勝手な期待をしてはいけない。彼らだってギリギリでやってるかもしれないし、失敗してうまくいかないことだってある。バイアスにとらわれず、正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、など自分で判断しようとする姿勢を持つことが大切だ。

周りのせいにするな

勝手に他人を期待して絶望する、というのは非常に都合のよい他人への解釈である。無条件に人を信じることで自分で判断することを避けようとし、間違えたらその人のせいにする、という無責任な考え方なのだ。周りのせいにしていれば自分は何も考えなくてもいいし、変わらなくてもいい。そういう考えから脱して、無条件で全てを信じるのではなく、自分の目で見て自分なりに判断しよう。それで相手がうまくいかなかったからといって、単純に相手のせいにするのではなく、貴方も何かできることがあったはずだと、上司だろうがなんだろうが、自分とその人を対等に扱おう。

納得していないのに自分の意見を曲げる必要はない

協調性の高い日本人は、相手の意見に合わせて自分から折れることが度々あると思う。隣室の騒音が寝れないほどうるさいため賃貸を引っ越すことを検討している、と言う友人がいるが、私はなぜ、被害者である友人が引っ越さねばならないのか、と思う。もっとクレームを管理会社にいれるべきだし、それでも改善しないのであれば相手側が退去してもらうか、自分が引っ越すにせよそれにかかる費用を管理会社に出してもらえるよう断固として主張するべきだ。

なぜ自分の意見を主張せず、曲げてしまうのか

これはもう、「嫌われたくない」からである。自分の意見を通す、ということは誰かの意見は通らない、ということ。その”誰か”にイヤに思われる可能性がある。それならば、自分から折れた方が楽だ、という考えがベースである。

納得していないのに、自分が損するのはよくない

納得しないでおこす行動、というのは尾を引く。あの時ああしていれば、とかあの時はあの人が云々、といつまでも後悔もするし愚痴る。きっちり意見を主張して、納得してから行動に起こせば何にも不満はない。相手に文句を言う前に、自分の行動を振り返ろう。

意見を主張するのは面倒くさい?

意見と通すことが「面倒くさい」という意見があるかもしれないが、それは言い訳である。なぜならば、納得を伴わない行動は「面倒くさい」からである。幼少のころ、親から勉強しなさいだの、家事しなさいだの、頭ごなしにいわれて「面倒くさいな」と思ったことがあるだろう。確かに意見を通すのはすこしばかり面倒かもしれない。だが、それを怠るとそのあとがものすごく面倒くさいことになりかねないのだ。面倒くさいことが嫌ならば、しっかり意見を主張し、納得しよう。

小利口さんは自分の人生を生きれない

協調性を重んじる日本人としては、周りに合わせることが美徳として重んじられる。周りの顔色を伺い、周りの人に合わせる生き方をしては、周りのために生きることになる。自分のために生きるにあたっては、利口になる必要はない。周りがxxだから私もxxする、ではなく、周りはxxだと思っていても私はyyだと思う、という意見をしっかりもち、自分のために行動するべきだ。

何があっても前進している

何かうまくいかなかったり、失敗すると落ち込む。うまくいっているはずの出来事でさえ、急にスランプに陥ることもある。どうしても波みたいなものもあるし、うまくいかないとやる気もでない。 だが、うまくいかないのにも何かしら理由がある。それが些細な理由だったりする。その些細な理由に気づくことができれば、それは後退ではなく前進だ。次からは同じことにならないように芽を潰せばいいのだから。仮に原因がわからなくたって、さしたる問題ではない。何事もなく全ていくというのはあり得ない。その障害のハードルを超えること自体が、前進のチャンスだといえよう。失敗して凹むのではなく、失敗したことによってより前に進めるという風にマインドを変えたらいい。そうすると失敗すらも楽しめるようになる。凹んで投げやりになるのではなく、失敗したからこそ前進できるのだ。失敗は噛みしめながら進もう。

寡黙は美徳ではもうない

空気を読む、読めない(KY)などという言葉があるように、日本には協調性の高さ故か、その場の雰囲気を壊さないように努める風習がある。その最たるものが「寡黙」だ。こちらが細かいことを言わなくても相手に伝わる、相手が細かいことを言わなくても理解できること、「言わなくても分かるでしょう」という暗黙のルールが存在し、日本人はみなそれを美徳としている節がある。

なぜ言わなくても伝わるのか

日本はかつて一億総中流階級と言われるほどに、みな横並びであり、殆どの場合バックグラウンドが一致していた。みな、幼稚園に入り、少なくとも高校くらいは卒業していることが多く、過ごし方も似ている。当時は他の国のように格差が大きかったわけじゃないから、学校に行けないほど貧乏だったり、両親が犯罪者だったりするケースはレアだったはずだ。それで、高校や大学を卒業したらまもなく企業に就職し、定年まで勤めあげる。老後の過ごし方までも大体イメージできる。 このように、バックグラウンドが共通しているということは、わざわざコンテキストの共有をしなくてもいいので、黙っていても無意識に”この人は私と同じような人生を歩んでいる”という前提で、大体の価値観とコモンセンスを共有できる。

もう常識が常識でない

しかしながら、もう明らかなように経済大国としては日本は落ちぶれた。この後も、消費税増税が控えてるし、イギリスのEU離脱やテロの激化など、世界情勢の不安定さも相まって、余計に見通しを立てるのが難しくなってきている。当然格差も大きくなり、貧乏人がものすごく増えた。子供を満足に学校通わせることのできない世帯も増えてきているようだ。そうなると、私達がかつて常識だと思っていた常識は常識でなくなる。昨今では大学を卒業するのはあたり前になってきたが、今後はわからない。もしかしたら中卒、高卒も多くなるかもしれない。生活も金持ちと貧乏人の間ではものすごい隔たりがある。自分以外のバックグラウンドを想像できなくなる。世代間格差もある。価値観は細分化される。だから「言わないとわからない」ということのほうが、当然になりつつある。

常識は押し付ける側の詭弁

常識は便利である。常識をお互いわかっていれば(正しくは、お互い知っていることが”常識”なのだが)、言わなくてもいい、というのは非常に効率的だと思う。ただ、前述したとおり、もはや今までの常識は常識じゃなくなりつつあるので、そうはいかない。だが、昔から”常識”の上でやり取りしてきた若くない世代は、若い世代にもどんどん常識を押し付けてくる。今までそれで通用してきたからだ。「若い世代には伝わらなくなったから、きちんと伝えるように心がけよう」などと殊勝なことを考える人の割合は少ない。それどころか「今の若いものは」「これだからゆとりは」などと常識がわからない人を卑下し、無理やり自分たちの価値観を押し付けてくる。もはや、便利だったはずの常識は、押し付ける側だけに有利な詭弁になってしまっている。

常識だろうが非常識だろうが物事をしっかり見極める

ある人にとっての常識は、ある人にとっての非常識になりうる。その逆も然り。かつての一億総中流階級から時代は流れ、価値観が細分化されてしまっている以上、全員に通用するコモンセンスは少なくなっている。今までの常識が役に立たないシーンが増えている。だからこそ、慣例に従うのではなく、都度、自分なりの意見や考えを持つべきだ。その結果、”非常識”な行動を起こそうとも問題ではない。所詮常識は過去の経験からなるものであり、新しい考えはすべて非常識なのだから。やってみて、失敗したら失敗したで、改めればよいだけだ。

雄弁こそ美徳

常識が常識でなくなった以上は、言わなきゃ伝わらない。言ってもらわなきゃわからない。自分の言いたいことが伝わらないから、あるいは相手の考えていることがわからないから、といって一方的に相手のことを卑下したところで、なにも解決しない。きちんと相手の目線にたち、相互理解を深めることが本質である。そのためには、きっちり自分の意見を口で言わなければいけない。言わなくてもわかるよね、というのはもはや通じないのだから、とことん意見を主張するしかない。それで意見が合わなくても問題はない。先程から述べているように、価値観は細分化されているのだから。意見が合わなかったら、ビジネスだったら上司や他のメンバーと話して多数決なり折り合いをつければいいし、プライベートだったら、意見が合わないことで居心地が悪いのであれば付き合わなければいい。寡黙こそが美徳、が染み付いたままだと、生きてて楽しくなくなる。相手にわかってもらえないし、相手のことを理解できない、そんな納得しない状態で物事を進めるのは苦痛以外の何者でもないからだ。必要なことはきちんと言い、相手のこともきちんと聞くこと。多様性が増してきた現代ではこういう風に自分も変化していかなければいけない。

頭の常用回転数を上げる

普段から考えたり、決断したりを先延ばしにすると、脳を使わなくなり価値観が固着する。頭の常用回転数が下がり、本当に必要なときに熟考することができなくなる。齢を取り、40代、50代となっていくと、若々しく流暢に話す人と、ぼんやり喋ってなにを言っているかよくわからない人に二極化されていく気がする(私の身の回りでは)。これは、高血圧や肥満などと同じ生活習慣病の一つのカテゴリにしてもいいと考えている。
考えることを他人任せにしない、自分が考えることはしっかり考え、主張していく。確かに面倒ではあるのだが、日頃やっていくと、考えるのが普通になるので、頭の回転が早くなる。そうなると急なアクシデントにも強い。失敗してもそこから学ぶ。このサイクルを繰り返すことで、自然に脳の鍛錬がされ、頭の常用回転数があがり、地頭が良い人になる。

意識して強く頭を使おうとせずとも、日頃、自分に関することはなるべく自分で決断していけば自然とそうなる。

murabito-rx.hatenablog.com

昨日は決めることの大変さを書いたが、決断するにあたっては物事を多方面から捉え、あらゆる可能性を想像する必要があるので、繰り返すと自然と脳が鍛えられる。だから、脳を鍛えるのにどうしたらいいかわからない人は、例えば、仕事で決めきれる範囲を自分で決めていくといい。例えばミーティング中、積極的に発言し自分にとって優位に物事を進めるようにする、などだ。他にも不満があれば主張するべきだし、改善案があればどんどん提案してみるといい。自分で自分のことをコントロールできるようになってくると不満がなくなるばかりか、楽しくなっていく。これが頭を鍛えることの醍醐味かもしれない。

一度決めてしまえば楽

スティーブ・ジョブズが毎日同じ服を着ていたのは、意志決定の力を無駄なことに使いたくないから、だという。世の中の成功者は意志決定のエネルギーをどこに注ぐか、きちんと理解している人が多いのかもしれない。意志決定というのはかなりのパワーを使うのは事実だ。例えばショッピング。悩みぬいて割と高価なモノを買ったあとなどは、疲れないだろうか。あれは悩んで疲れたというよりは、まさに意志決定に力を使ったからだと思う。 物事を決めるときはたくさんのエネルギーを必要とする。高い買い物をするときは、他社製品や類似製品でコストパフォーマンスがよいものはないか、何色がいいか、オプションはどうするか、そもそも本当に買うのか、色んな視点で物事を考える。同じく買う、という行為でも「じゃあxxでyyを買ってきてよ」とお使いで頼まれた場合はほとんど思考せずに買うので疲れない。

私が意志決定で疲れるとよく思うもののひとつに、勉強、がある。あれもこれも身に着けたいから、決めかねるのである。例えば、英語の勉強もしたいし、コンピューターサイエンスの勉強もしたい。実際に手を動かしてなにか開発をしてみたい、など。あれもこれもしたい、なにをしたらいいかわからない、という人は多く居ると思う。実際そうなると、決めきれずに時間だけが過ぎていって結局なにもしていないパターンもあり得る。さらに無駄に疲れる。

自由は不自由になりうる

どこかで聞いたことがある気がするフレーズだが、自由というのはある意味不自由である。自由ということは選択肢が無数にある、ということ。選択肢が無数にあるということは、自分で選別して判断しなければいけない。逆に、決まっている場合はそこに全力投資してしまえばいいのだが、自由の場合はその段階にたどり着くのも一苦労なのである。下手をすると、先の勉強の例のように、なにをやっていいかわからず、思考停止して何もしない、ということもあり得る。自由であるはずが、何も決めきれないのであれば、それは不自由に違いない。

決めてしまえば疲れない

だから、先に意志決定を済ませれば、その後は簡単だ。悩もうとすればどれだけでも悩めてしまうので、意志決定は手短に済ませたほうがよい。悩んでいる間は、この選択は正しいのかどうか?ということは常に付きまとうだろうが、そんなもの、至極当然だが、やってみないと誰もわからない。少し考えてみて、あとは愚直に、自分の直感に頼ってみる。で、なにか問題が起きたら、その時また対処すればよい。トラブルが起きた時には、ああ、この意志決定は間違っていたいたかもなぁ、と思うかもしれないが、逆の選択肢はもっと悲惨だった可能性だってある。悩みすぎず、いうなれば少しだけ馬鹿になって、さっさと前に進む姿勢が大事なのだろう、と思う。

悩むのは贅沢

悩むことができるのは、贅沢である。まず、悩むためのヒマがある。昔、仕事でとても忙しいことがあったが、どうやって仕事を早く終わらせて切り上げるかとか、納期に間に合わせるにはどうするかというのを必死に考えていて、人間関係のこじれや、小さな不安などによる悩みは一切感じることがなかった。感じるヒマがなかったからである。なにもとにかく忙しくしろ、ということを言ってるのではなく、どうでもいいことや小さいことで悩んでいるとしたら、その分ヒマで、ヒマだということは実は余裕があるということなのだ。その余裕がある分を、なんでもいいから一歩前に進むことに費やすのはどうだろう。なんでもいい、やりたいことをひたすらやる、あるいは運動や勉学に時間を費やす。そうすれば、時間は有限だということを思い出す。それらに比べればちいさな悩みなぞはプライオリティが相当低い。私もかつては人間関係や小さいことに悩んでいたことがあったが、やれることとやることが増えてからは、そういった悩みを感じることがなくなった。そういうヒマがないのだ。考えることがたくさんあって。悩むくらいなら、好きなことをしよう。