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Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

低次元の承認で満足した人の成れの果て

先日、下記の記事を書いたが、今回は「低次元の承認で満足し続けるとどうなるか」を書く。

murabito-rx.hatenablog.com

低次元の承認は麻薬

低次元の承認は、我々は小さいころから与え続けられている。子供の頃は些細な事でも親や祖父祖母からは褒められるものだし、もちろん、宿題をきちんと終わらせたり、テストで良い点をとっても褒められる。褒められるというのは実に心地が良い。生きている意味を感じるし、身近なコミュニティにおける自分の役割やアイデンティティだって感じることができる。なにより、ただただ心地がいい、気持ちがいい。 だがそれは、裏を返せば褒める側に生き方を誘導・制限されているだけに他ならない。「叱るのはだめだ、褒めて伸ばす」というような教育は本来教育ですらない。その教育方法は、褒めるという麻薬によって、褒める側が描く理想の生き方を強いているだけなのだ。(人は、自分の行動が正しいかどうか、自分で判断できるようにならなければいけない、それが教育だ)

いわゆる親や周囲が用意したレールに載せられるのは、低次元の承認(麻薬)によってコントロールされているからなのだ。

認められなくなったら終わり

だが、その用意されたレールの上を歩こうとも、人生は必ずうまくいくわけではない。例えば、受験戦争や就職活動での失敗だ。言われたとおりこなしてきたはずなのに、受験に失敗して浪人してしまう。それでもうまくいかない。しびれを切らした親は叱責や罵声を浴びせてくる。子供は良い子にみられたくて、言われたとおりにしただけなのに、期待したこととは裏腹に、親から承認されないしプライドも傷つく。今まで他人による評価のみで正悪を判断してきたので、自己評価という術も知らず、自分は傷ついたまま。 その結果、現実逃避のために、非行や暴力、最悪の場合自殺という選択肢を選ぶ。親・周囲・他人から認められない=自分の存在価値がない、と判断し、どうにかして構って欲しいと考えた結果、そういう行動に出てしまうのである。そこから挫折を経て、社会に出れる人もいれば、立ち直れず引きこもりやニートになってしまう人もいる。

周囲に褒められ続けるとどうなるか

逆に、幸運にも(私は不幸だと思うが)、他人から認められ続けている人もいる。そういう人はかなり厄介だ。まず、そういう人間は縦社会の人間だ。自分が如何に素晴らしいか、というのを認められて欲しいと常に思っているため、基本的に誰彼構わず「自分が上だ」というマウンティングをしてくる。過去の自慢話、武勇伝をしょっちゅうしてくる輩がいると思うが、動機は同じだ。どうしても実力で敵わない相手の場合は、媚を売り、できるやつだと認めてもらおうと努める。上にはヘコヘコ、下には厳しいという若手からすると嫌な手合だ。 もちろん、自分で自分の評価はできず、他人からの評価ばかり気にするので、例えば、言うことが二転三転する。見下している人の意見については駄目だしをするのに、著名な人や有名な人からの意見は平気で鵜呑みにする。 最終的に、彼らがどうなるかというと、結局他人から尊敬を得ようと四苦八苦するのは変わらないのだが、どんどん規模が大きくなってくる。実は、他人から認められ続けるというのはある意味限界があるのだ。幼少期、自分で歯を磨いたり、着替えたりできればそれは褒められたものだが、大人だと身の回りのことは出来て当たり前だろう。つまり、歳をとるごとに周囲の期待のハードルの高さは比例し、それに応えようとするとどんどん大掛かりになっていくのだ。だが、いずれ、他人の期待を裏切ってしまう時がくる。褒められ続けた人間は、実力が伴わないからだ。彼らは何を成し遂げたかよりも、他人にどう見られるかのみを気にしてるので、表面的なことしかできない。だから実力がない。なのにもかかわらず、持ち上げられて大掛かりなことをしようとする。 例えば政治活動や人材教育など、社会的大義があるものをやろうとする。無論、まじめに自己実現としてやっている人もいるが、そのなかの「胡散臭い人」は周りからの尊敬を得るためだけにやっているのである。何が言いたいかというと、そういう人たちは実力もない上に、見た目しか気にしていないため、ろくなことにならない、ということだ。政治活動や人材育成にしろ、人を大いに巻き込む。そこで他者からの注目をあつめるための利己的なことばかりをしていては、そのコミュニティに所属してしまった人は大損である。下手をすると日本全土を巻き込む恐れもある。 そういう"モンスター"を作り出さないためにも、褒めて育てるというエセ教育から脱却していく必要がある。