Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

批判に弱すぎる人へ

最近下記のような、PTAについて、入りたくないだとか、なくなってほしいというネット記事をしばしば見かける。下記の記事も数日前に投稿されたものだ。 以降、下記の記事をサンプルに話を進めるが、投稿者を批判するようなことが言いたいわけではなく、あくまで心理的側面についての分析なので悪しからず。

anond.hatelabo.jp

まず、この手のセンセーショナルな主張をする人は、他人からの「批判」に対して大変脆い、という傾向にある。

役員できないっていったら悪口 役員会議参加できないっていったら悪口 みんな同じライフスタイルじゃないんだから 専業主婦基準の平日日中なんてできるわけねーだろ

引用すると、例えば上記の部分がそうだ。「専業主婦基準の平日日中なんてできるわけねーだろ」という一文は、PTAのあり方についての主張というよりも「悪口」に対する返答に見える。そもそも「PTAはこういう問題があるのでこう改善するべきだ」「もとが欠陥なのでなくすべきだ」というようなPTAに対する純粋な主張だけならば、誰にどう批判されたかはあまり関係ない。これが冒頭部分にあるということは、恐らくこの記事を書こうとおもったのは、実は他人から批判を受け、耐えきれなかったからだと思われる。「PTAへの非難」という主張を介して、”「悪口」を言っている人がおかしく、自分は悪くない”と自己肯定するために投稿した、と私は捉えている。それが全てではないにしろ、投稿をするきっかけにはなっている。このことは、最後に「ただの愚痴と不満です、すいません」と書いてあることからも読み取れる。逆に、仮に悪口を言われなかったとしたら、このセンセーショナルな記事は書かれなかったのかもしれない。

批判に対する適性がない日本人

そもそも、日本人自体が批判に大変弱い。私は、お笑い芸人の厚切りジェイソンは、日本人に対しておかしいところをズバっと指摘するところが、小気味よく、確かに、と納得させられることもあり好きだ。だが、某有名掲示板あたりをみていると、「不満ならアメリカ帰れ」という投稿がかなりの頻度である。厚切りジェイソンは「日本のここがおかしい」と言っているだけなのであって、住みたくない、と言っているわけではない。そりゃ、住みたくない、というならば、じゃあ帰ったほうがいいのでは、とは思うが決してそうは言っていない。むしろ、これからも心地よく生活できるよう、改善できるところは改善していこうよ、と前向きな主張をしているわけである。にも関わらず、自分が住んでいる日本に対して批判があると、脊髄反射のように言い返してしまう。この例のように、批判に対して大変弱い人が多い。 日本人は協調性を重んじ、「寡黙こそ美徳」、つまり空気を読むことを大変重んじる。徹底的にそう教育されてきたと言っても過言ではない。自分と他人が同調している、という感覚が非常に大切に思う。だからこそ、非難されると大変な不安に陥る。その不安がきっかけで怒りに転じるのだ。

誰が悪いのか、という悪人探しから脱却する

このようなことも、アドラーに倣えば結局「他人からの評価を恐れるな」としてしまえば話は早いのだけども、なかなか急には難しいので、少し考え方を変えてみるだけで改善されるかもしれない。

  • まず、あらゆる主張や意見は尊重されるべきである、ということだ。批判であろうが、賞賛であろうが、同調的であろうが反対的であろうが、みな平等な意見である。そもそも、人間はみな平等である。つまり、どの人間が発した主張もみな平等なのである。言わなくてもみんな理解していることだが、それを忘れてしまうことが多いのではないか。
  • 次に、悪者探しをしないことである。他人の意見が間違っているのか、自分の意見が間違っているのか、つまり、どちらが悪いのか?ということを延々と答えを探している人も大変多く見かける。某有名掲示板でも「これって私が悪いんですかね」と他人に意見の善悪の判断を求める投稿も本当に多い。率直に言って、これは滑稽である。なぜならば、この場合、明確な答えなど存在しないからである。明確な答えがあればそもそも主張や意見はすれ違わない。言い方をかえれば、どちらも正しい(どちらも間違っていない)のである。さらにいえば、意見はあくまで意見なので、正しさを求めるものではない。批判的意見も、同様だ。自分はAだと思い、相手はBだと思う。主張や意見が違ってもどちらが一方がおかしいということはほとんどない。

自分に従う

あらゆる主張や意見は平等だしそれぞれ尊重されるべき。そして確実な正解はない。「じゃあ結局はどうするのか」ということだが、自分に従うだけでよい。自分の主張や意見こそがベターだと思うのならそれを実行したらよいし、相手の主張もきいてみて、再考の余地がある、と思うならそうしたらよい。悪口を言われて「確かにそうかもしれないな」と思うことがあれば直したらいいし、「ただの人格攻撃だな」と思うのなら何もしなければよいのである。逆に、やってはいけないことは、他人の意見を鵜呑みにすることである。繰り返すが、意見がすれ違っている時点で、確実な答えは存在しない。他人に頼ってもそれが正しい道とは限らない。だからこそ、自分で考えて自分で選択することが大事なのだ。仮に間違ったとしても、他人のせいにしなくて済み、精神衛生上非常によろしい。考えても考えてもわからなければ、あとは直感に頼るのだ。他人のために生きるのではなく、自分のために生きるよう努めるのだ。