Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

周りに流されず自分の意見を持ち続ける

日本人は特に常識を尊重しがちだ。常識だけでなく今までの慣例的なものまで、意味はわかってなくても慣例通りやる。一億総中流階級であった日本人としては、全員が同じバックグラウンドで、同じコンテキストがあり、同じ価値観を持っていると無意識的に理解しているので、他人との違い、つまり常識から逸脱する行為や考えを拒絶する。しかしながら、常識や慣例というのは「全員」によって決められたものではなく、あくまで「大多数」で決めたことであるし、さらに言えば、「過去」の出来事だ。常識=大多数の人間が過去に決めたこと(自然とそうなった、が正しいが)。つまり、常識とは「全員」が賛同したことではないので、間違いが存在したり、少数派にとっては都合が悪いこともある。しかも、コンテキストはあくまで「過去」の段階であるため、今現在にそのまま適用できるかもわからない。だから、常識というのは正しくみえて、正しい保証はどこにもない。それなのに「常識だから」とか「空気読め」とか、考えることをやめてしまって自分の意見を持たない人が多い。常識をなんの疑問ももたずに迎合する、というのは、言い換えると「大多数の意見を鵜呑みにする」ということである。つまり、ただ常識に従い続ければ、無意識的に自分の意見はなくなってきて、他人の意見に支配されるということになる。それに、コンテキストの時制も「過去」と「現在」でずれているし、主観でしか見えない箇所も必ず存在する。口頭で伝えれることだけ伝えて、「ああするべきだ」とか「この意見は間違っている」とか言われたとしても、それをそのまま鵜呑みにする必要は全く無い。それらはあくまで意見として捉え、熟考する。熟考した上で「正しい」と判断するならそれは他人がとやかく言おうが「正しい」(あくまで自分にとっては)。自分が正しいと確信した行為や考えは、大勢から批判されたとしても、成し遂げるべきだ。他人の意見ほど、いい加減なものはない。自分が失敗しても、他人は責任を取らないからだ。責任を取らないからなんでも言える。自分の責任は、自分で持つべきであるとするならば、自分のことは自分で考えぬくべきだ。