Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

自分の幸せを見つける旅

なぜ働くのか、なぜ結婚するのか、なぜ子を産み、育てるのか。(もしくはなぜ働かない、結婚しない、子供も作らないのか) 人は生きてる上で、様々な事を成そうとしている。意識している人は多分あまりいないが、自らの幸せを追求した結果、そうしている。大げさなことじゃなくとも、例えば山に登るだとか、マラソン大会に数多く出るとか、好きではない人からすると何故やるか全く理解できないが、それが好きな人は終わった後の充実感や達成感、そしてその過程をも楽しむ。特に日本人は会社や家庭、今の環境について散々の愚痴をこぼすが、その中でももがいて、なんとか自らの人生を楽しみ、幸せに生きようとする。

ただし、自分にとって何が幸せなのか、もっと単純に言えば、「何が好きなのか(あるいは何が嫌いなのか)」というのを完全に把握するには非常に難しい。おそらく不可能だと思われる。例えば私は南の方に住んでいるので、カーリングボブスレーなど氷が張っていないとできないスポーツはやったことはない。オリンピックなどの機会にTVで少し眺めたことがあるくらいだ。特に思い入れもない。もしもやってみることができるのなら、実は楽しいかもしれないし、可能性は低いだろうがもしかすると、私にはオリンピック選手並の秘めたる才能があるかもしれない。だが、やるまではわからない。それを試してみることは、まぁ不可能ではないが、好きかどうかもわからない、特にピンと来ないスポーツをするために雪国にまで行く時間とお金の余裕はない。このように、世界のあらゆる体験をすることなんて不可能だし、こういう風に例えを出せる分マシで、全く知らない体験は確実に世界にいくつも存在し、自分が生きているうちにできる体験は一握りと言えるだろう。

「好きである」というのは内なるモチベーションであり、爆発的な推進力になる。これはやるべきだ、これをやらないと怒られる、という外的モチベーションは一時的には効果を発揮するが、長続きはしない。最低限のノルマを達成すれば(あるいは達成せずに)終わってしまう。好きであればなんだってできる。私は好きでテニスをしているが、プロになるほどの才能は残念ながらない。それでも、なんとかうまくならないかと壁打ちをしたり数多くのゲームをこなそうとしてもっと上達しようとする。そして時間はかかるがなんとか少しずつ上達する。それはもちろん苦痛ではなく、その過程ですら楽しい。

もっとも恵まれているであろう状況は、好きであり、そしてそのための才能があることだろう。それを仕事にして稼ぐことができるからだ。テニスは残念ながらそうではないが、私はプログラマーとして生計を立てており、プログラミングをするのは好きで、才能は、なんとか仕事をこなせるという程度にはある(天才的・有能な人にはまるで敵わない)。割と早い段階でそういう職に有りつけたことは幸運なことだと思う。IT技術の世界は日進月歩で、勉強し、スキルや知識を向上させ続ける必要がある。それが苦だとは思わないし、努力だとも思っていない。仮に他人から努力と思われようが、私のようにITが好きな人にとっては単純に知的好奇心を満たそうとする娯楽的な行動である。職業としてだけでプログラマーをしている人であればまるで苦行だと思えることだと思う。努力だと思ってやる行為は長続きしない。

仕事について言及したが、もちろん、仕事だけに限ったことではない。生活や趣味、なんでも好きなようにやるのが最も良い。もちろん、好きなことをやるためにはいくつかの障害が待ち受けるが、本当に好きなことのためなら乗り越えられる。好きなことを思いつかない場合は嫌いなことはやらないということでもいい。それだけで大分人生はシンプルになる。愚痴を言っているヒマがあればそういうことに力を注ぐべきだ。

話が長くなってしまったが、好きなことのためなら継続して向上できるし、楽しい。好きなこと(そして才能があれば尚良い)が見つかれば、それに全力で取り組むことができる。人は自分の人生を幸せに生きるべく、毎日を過ごしているが本当に好きなこと(自分にとって幸せなこと)が見つけられてないのであれば、幸せに近づくのは時間がかかってしまう。見つけてしまえば、それに向かう爆発的パワーを以って仕事や生活がうまくいくようになる。しかし、前述したとおり本当に自分にとって好きなことを見つけるのは容易くはない。自分にとって何が幸せなのか、日々自問自答し、自分の心の中を発掘し宝を見つけるかのごとく、コツコツと自身を振り返るようにすれば人生が切り拓けるのだと思う。

過去は美化されるが本当に美しいとは限らない

過去は美化されがちである。自分にとって悪い記憶も、あの時あんなことがあったから頑張れたのだ、という感じだ。

あの時は厳しくして下さってありがとうございました、というような、かつての恩師や元上司に感謝の意を述べる場面をたまに見かける。
当時、本当に良く育ててもらったのならもちろん素晴らしいことだと思うが、"厳しい"というのに体罰モラハラパワハラが含まれているのであれば決していいことではない。それらは人間の尊厳を傷つける忌避すべきことであるのは明確だ。だが、それらでさえ、時間が経つと何故か美化されがちだ。

勘違い:過去の否定は現在への否定

人は基本的に間違っていることは認めたくないものである。間違いを認めるということは、その部分は直さないといけなくなるしその分労力がかかる、そして不安になる。だから、自分の行動や考えを否定したくなく、現状維持に勤めたい。特に、過去は変えることすらできないので、「過去が(自分にとって)良くなかった」とは認めたくない。現在は過去の延長だと考えているので過去を否定するということは、現在への否定につながる恐れもある。

歪んだ美化はやめるべき

ささやかな美化くらいならともかく、本来忌避されることを美化し、認めてしまうと、同じ過ちを繰り返してしまうことにつながる。仕事でパワハラを受けても耐えてしまったり、自分の子供が学校でいじめられたり体罰をうけてしまっても「そういうものだから」と学校に行くことを強要してしまうかもしれない。さらに過去の間違った美化によって、部下にパワハラをしてしまうなど、自分がされて嫌なことを相手にしてしまうようになる可能性もある。自分にとって良くない過去は認めたくないものだが、過去の否定は現在の否定ではないことを意識し、むしろ今をよりよくするために、過去の異常な美化、賛美はやめて正しい視点で振り返った方がいい。

海外いくと価値観が変わったり、やりたいことが見つかるのか

最近、とある用で1週間ほど海外出張をしていた。もともと私はヒッキーな性格なので「自分探しの旅に海外に行く」という人たちの気持ちはよくわからなかった。ただ、海外でしか得られない視野はあるのかもしれないなと思ってもいたが、今回の出張で、大きく自分の価値観が変わったりすることはないだろうという結論に至った。

まず、海外に行くには色んな体験ができるという意味では面白いと思う。見たことのない景色やイベント、アトラクション、文化の違いなどだ。ただ、娯楽として面白いのであって、そこから新しい価値観が生まれたりやりたいことができたりはしないと思う。しかも、そのような体験は国内でもある程度は満喫できる。日本国内だけでも、行ったことのない土地にいく楽しさは味わえる。 もっと言うと、今住んでいる場所でさえ新しい体験はいくつもある。私は最近では、ポケモンGoをプレイして、こんなところにこういう場所があるのか、と思わぬ発見がいくつもあったものだ。

だとすれば、どうやって価値観が変わったりするのかというと、場所や文化というよりは、人との交流で生まれるものだと思う。そもそも、価値観というのは、人同士による相対的なものでしかない。皆が同じ価値観であれば価値観という概念もなかったかもしれないし、やりたいことが見つからない、などと嘆く必要もない。つまり、どこにいようがどの人たちと交わるかで大きく価値観が左右される。私も今回の出張で刺激を大いにうけたが、それは一緒にいたクライアントだったりチームメンバーからであった。(文化的な違いはすぐに慣れてしまった。) 自分と違った人たちの話を聞くと、そういう生き方があるのか、考えようによってはどうとでも人生楽しめるものだなと感じる。ネガティブなパターンも存在するが。

しかしながら、最終的には結局自分次第であるということも付け加えたい。いくら他人の価値観を知れたからといって、それだけで何かが変わるわけではない。我々がもともともっている常識とか価値観というのは、実は自分以外の大衆によって作り上げられたものだからだ。学校では横並びの教育、社会に出てからは周りの目を気にする生活がある。車、家、家族、ほしいと思ったものは本当に自分がそう思ったものなのか?あなたが欲しいものはあなたが決めたのではなく、実は広告によって刷り込まれたものかもしれない。社会や常識に縛られ、その中から取捨選択をしようとしていないか。実は働かなくとも実は自給自足で生活する方が性に合っている人だっているだろう。自分だってそうかもしれない。大衆によって醸成された無意識的な自分の中の常識を捨て去れば、環境や他人から教わらずとも、人はいつでも自分の中の価値観を変えることができるし、やりたいことだってやっていける。

面白さ駆動

何かいろんな事やってる、あるいはかなり造詣が深い人、わかりやすく言うと「すごい人」と評価される人たちは、とにかく"面白さ駆動"だ。彼らは自分への利害はあまり求めない。やってて楽しければそれでいい。損得勘定をしないのでリスキーなことができるし、好きでやってるのでモチベーションも持続できて集中しているので、いつも素晴らしい成果を挙げる。結果的にそれが周りから"すごい"と評価されるだけであって、本人らは好きなことをやっていただけで特段すごいことはしていない、とさえ思っている。

それに比べて、一般的な人たちは、生活のために金を稼がなきゃ、とか、怒られたくないから真面目にしなきゃいけない、など"やるべき"で行動をしていることが多いと言えるだろう。やるべき、で物事を考えてしまうと、ある一定の"やるべきライン"を超えてしまうとそこで終わりだ。だからそれ以上はなにも生み出さない。それが悪いことでは全くないのだが、私がいいたいのは、そういう"やるべき"なことはなるべく減らしてしまい、自分が"面白い"と思えることに、自分の時間を投資したほうがトータル良いと思うのだ。

少なくとも私の周りの成功者は"面白さ駆動"によって事業を成功させている。「なんで◯◯したんですか?」といっても、あまり納得する答えは返ってこない。なんとなくやったとか、面白そうだと思ったから、あとで話のネタになるとか、そういうことを平気で言ってのける。損得勘定だけで考えると、やはり大胆なことはできないのだと思う。余裕がないとビジネスも成功しづらい。"面白さ駆動"の人たちは、なんというかもう勢いでやってるのでうまくいくときは相当うまくいく。それに、失敗を失敗だと捉えてないフシがある。うまくいかなくてもそれすら楽しむほどの余裕を感じる。好きなことなのでうまくいくまでやり続けるし、なにより本当に楽しそうだ。彼らを見ていると自分の打算的な行動は無意味だとすら思えてくる。生活している中で、ある種の生きづらさ、余裕のなさを感じてきたら、彼らに会うべきだ(そういう人たちは目立つので、一歩外に出れば案外すぐ見つかる)。楽しく人生を過ごすにはどうしたらいいかを改めて考えることができるようになる。

感性を大事にする

私はどちらかというと論理的思考を重んじる。時折屁理屈をこねてしまうこともある。だが、理屈で説明できないこともこの世には存在する。例えばどうやれば成功するか、だ。理屈や事実というのは、あくまで過去でしかない。過去の経験則に基づいて導き出すものだ。だから「こうやったから成功した」は言えるが、「こうやれば絶対に成功する」は言えない。不思議だ。もちろん経験則を利用することは非常に有効だ。過去から未来を予測し、ある程度先のことならどうなっているか見通せる。だが、その見通しでさえ、想像であり本当にどうなるかはその時点に到達しないとわからない。確実性は低いので、あくまで論理はあくまで補助的な役割である、と割り切ったほうがいい。 なので結局は感性、直感、あるいはそれに類されるものがすごく大事になってくる。特にデザインなんかは、理屈だけでは説明しにくい。なぜ良いと思えるのか、なぜ感動するのか。論理的思考を得るのは、例えばこうやって自分の考えを書き出すだけでも論理的思考能力を鍛える一助になる。机上でできる。ただし、感性は違う。実際に、物理的に新しい体験をして、その積み重ねで感性が養われていく。もちろん小説を読むことでも良い。その場合、読むだけでなく、場面場面をじっくり想像し、擬似的に体験するといい。感性が養われていくと、理屈を超えた直感、―第六感とかセンスとかいわれるものだと思うが、そういう力が身につく。直感にもとづいて意志決定し、直感が正しいかどうか、あとから論理が追いつくのである。まるで脊髄反射的に意志決定できるようになるし、その分悩むこともなくなる。意志決定が気持ちよくなってくる。 なので、勉強やロジックも考えることも重要ではあるが、PCとにらめっこしているだけでなく、外に出てなにかするという行為も、一見無駄に見えても、あとから生きてくるものだと思う。私の場合は、出不精なので旅などはあまりいかないが...思考の旅にでたり、身の回りのものにこだわったり、全然至らないが、自分なりの感性をなるべく磨くようにしている。そして感性を磨くのは楽しい。時間やお金が無駄だから、といってなにもしないのは、もったいないと思う。

他人のため、という動機はあり得ない

他人に対してなにかをする場面は多々ある。例えば友人が入院したのでお見舞いにいく、とか、祝い事があればご祝儀を包んだりする。これは、その友人のためにやっている行為に見えて、実は直接的にはそうではない。「自分がそうしたいからそうする」のである。何か祝ってあげたい、という気持ちもあくまで自分の中の感情だ。つまり、他人のためになにかをする、という行為は、実は自分がやりたいからという自分の意志にもとづいており、自分のための行為である。それが結果的に他人のためになっているだけだ。そんなことはない、という意見もあるかもしれないが、本当に聖人君子であるのであれば自分にまったくお金がなくとも、友達のために借金をしてでも施しができるはずである。結局は無意識的に、自分自身への利益を鑑みているのだ。

思ったよりも人はドライかもしれないが、悪いことではない。むしろ自身と他人の両者にとって良いことなら、望ましいことだろう。だが、悪いパターンも存在する。他人を自分の言い訳に使う行為である。「家族、子供がいるから、仕事を辞めることなんてできない」といって、現状に不満のある仕事をし続けようとする人がいる。一見、家族のために立派である、と評価されそうなものだが、実は違う。転職する、というのは労力、パワーが要るものであり、必要がなければしたくないものだ。勇気もいる。だから家族や子供を言い訳の材料につかっているだけなのである。本当に家族や子供のために働く、ということは自分自身も仕事で満たされるべきだ。自分に余裕がないのに家族を幸せにすることは難しい。本当に家族のためにやるなら、必死になってスキルを磨いたり転職先を探すべきであろう。他にも「他人のため」の皮をかぶった言い訳はかなりある。子供がいるから離婚できない、友達が傷つくから言いたいことが言えない、同僚が働いているのに風邪なんかで休めない、etcetc...。自分自身を正当化するために他人をダシにする行為は、どちらのためにもならない。
しかし、最たる問題というのは、この自己正当化を無意識にしてしまっている、ということだ。それどころか他人のため、と思いこんでいるのでなおのこと質が悪い。相手のためだけ、という行為は存在しない、ということを念頭に置き、しっかり、「自分のためになる行為はなにか、そしてその行為が他人のために作用するにはどうしたらいいか」ということを意識する必要がある。あくまで、自分がやりたい行動の範囲で周囲を幸せにするのである。自分自身をも幸せにできないのに、周りのためになにかできるなんて、おこがましいにも程が有るのではないか。

原因は結構遠いところにある

趣味でテニスをしているが、うまくボールが打てない時がある。そういうときはまずラケットの振り方を怪しむが、まぁちゃんと打ててないのだから当然振り方自体はよくない。だが、だからといってどう振り方を直すかというのを考えてもずっと改善できない。なぜなら、ラケットを振ってボールを打つという動作は、腕だけでなく実際は体全体を使っているからだ。つまり、腕の振りだけを見直してもだめで、身体の動作の流れ全体を考えなければいけないのである。私の場合、ボールが打てないときは、脚を曲げてないのが大抵の原因だ。しっかり重心を落とさないと身体の芯がぶれラケットを思うように振れないのである。もっというとポジショニングが悪い場合もある。ボールを打つ位置に入るのが遅いので、打つ準備が間に合わないのだ。更に、睡眠不足や体調不良というのも原因になりうる。体調が万全じゃないからポジショニングが間に合わない場合も考えられるのだ。
このように、「ラケットを振れてない」というのは直接的に腕の振り方の問題ではなく、その何歩も前の所作が影響しており、ラケットをうまく振ろうと腕の動作だけに着目していてはいつまでたっても改善しない。足腰を鍛えることで改善される、という直感的でない方法が解決策になりうるのだ。
この現象はスポーツだけに限らない。生活や仕事でうまくいかないときも、実はもっと遠く、意外なところに原因はある。例えば仕事が捗らない原因は、その人の能力ではなく、家庭がうまくいってなくて集中力が欠如してしまっている、ということもあり得るだろう。うまくいかなく必死になっているときほどそういうことは見抜けにくい。まずは自分自身を俯瞰的にみる余裕が必要になってくるので、しっかり身体を休めたり、遊んでリフレッシュしてうまくいかないことから一旦距離を置くことで、思わぬタイミングで気づきを得られることもあるだろう。