Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

なぜ美しいものに触れるのか

美しいものに触れたい、美しいものを見たいというモチベーションは、多忙を極めるサラリーマンにとっては大変理解し難いものである。漸く手に入った有給という権利を行使できる日や、週末の酒の場や趣味によるリフレッシュ、そして怠惰な土日の過ごす時間などは、サラリーマンにとってはまずそれこそが非常に大切だからだ。 つまり、基本的にヒマがない、なのでヒマができたらなるべく休みたい、寝たい、というのが日本的サラリーマンの心情ではないだろうか。土日の内の片方、あるいは両方を家族サービスに充てるサラリーマンにとっては尚の事、自由な時間というのは砂漠で見つけるオアシスのようなものだ。

だが、そういった巡るめく忙しい日々を送っているからこそ、立ち止まって視野を広げるべきだ。世の中には身近な所に感動は潜んでいる。その中でもとりわけ、美しいものを見て、触れたりする機会はもっと大事にしたほうがよいと感じる。もちろん、人とのコミュニケーションの中にも感動は存在する。子供や配偶者、家族、友人、何気ない彼らと会話や、彼らの存在も、改めて考えれば実にありがたいことであり、それ自体に感動するばかりである。

それとは別に、美しいものを見て、触れて、どう思うかというのは、実に自分の内面に限った話なのである。そこに他者は基本的には介在しない。無論、その美しいものを作り上げた発信者・発案者・作成者、なんでもいいがそういう類の人間が関わっているのは間違いがないが、結局は自分がそれを見てどう思うかである。絵、音楽、オブジェ、詩、なんでもよいのだがその一端に触れ、非常に印象深く感じるもの、それこそが自分にとって美しいものである。

美しいものに触れるというのは、前述のとおり結局自分に触れるということなのである。もう一歩踏み出し、なぜそれを美しいと思うのか熟考するともっと良い。自分の本質がそこに垣間見える。何がやりたいとか、夢がないとかそういう話はどうでもいい。そういう自分にとって美しいもの、心を動かすものに触れて、自分はどうしたいのか。世間体や論理なんぞはどうでもいい、非常に主観的で直感的な、その美しさに触れることこそが大変に尊いことであり、そして自分自身を成長させる足がかりになるのである。

正直いって、人はこれなしには大きくは前進しない。そのような感動がなければ私たちは惰性的に同じ日々を繰り返すことになるだろう。生きる途中途中で、美しいものに触れることで、私たちは心動かされ、他人にとってはどうでもいいことでさえも、没頭していく。その先に非日常が待っており、新たな自分の扉を一歩を踏み出すきっかけになる。それによって私たちは同じ日々の繰り返しから脱出することができ、自分自身を知り、人生が尊いものだと気付く。忙しい、そう思うときこそ、我々は美しいものに触れる努力をするべきだ。