Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

無駄な自意識を殺す

大抵の人は自意識過剰だ。特に日本はその傾向にある。例えば、後学のためにカンファレンスに参加したはずなのに、質問することすらできない。手をあげたら恥ずかしいだとか、でしゃばりだとか、そういう他人から自分がどう見られるかばかりを気にしてしまう国民性だ。この国民性自体は、その人の個性というよりは教育と文化そのものに原因がある。日本は寡黙が美徳とされ、言わなくても察する能力が賛美される。いわゆる”空気読む”というヤツだ。これが賛美される一番の原因としては、一億総中流と言われた日本人全員の横並びの価値観と、他の民族がほとんどいない環境にある。教育もすくなくとも小中高を通っているのが大体なので、全員同じ価値観、全員同じ体験を過ごしてきた。だから、言わなくても大抵のことはわかってしまう。なので、いわゆる常識が通じなかったり、空気が読めなかったりすると”変”だと認識してしまう。

人間、誰しも”変”でありたくない。変であることは忌み嫌われている。おそらく、生存能力として”変”は避けるのだと思う。何か食べた時、変な味がすると腐っている可能性がある。体調が変だと、異常をきたしていると気づく。こういう風に、変なことには敏感である。である。日本人は共通した背景が多くあるからこそ、その背景に縛り付けられる。逆に、身近に多民族・他宗教の人間が入り混じっていると、お互い背景が違うので、きちんと主張する必要がある。ここが大きく違う。寡黙が美徳なのか、主張が美徳なのか。

とにかく、総じて言いたいことは、”変”であることに過剰反応しすぎなのである。そもそも、他人と違っても変ではないし、”変”は他人との相対的なものである、というのを認識するべきだということ。”変”であることをさけ、世間一般の普通になることのメリットは、ほとんどない。きちんと自分を表現し、他人と違っていても、意見を述べるべきだ。それに、今となっては日本も格差社会で、趣味や文化も細分化していっている。もはや共有するべき最大公約数的な背景は少ないのだ。他人から変と認識されようが、その人とは共有するものが違うのだから、意見が違って当然。変と思われても、デメリットはなにもない。無駄な自意識を取り除くほうが、楽しく生きることができる。