Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

エッセンシャル思考について

エッセンシャル思考とは、端的に言えば「一点集中」あるいは「不必要なことはやらない」とも説明できる。

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私はどちらかというといろんなことをやろうとしてしまう人で、やりたいことは全部やっちゃえばいいじゃん、っていう風に思う方だけれども、実際には時間は有限であるがゆえ、できることは無限ではないし、それは言うまでもない。

全部をやるのは明らかに無理なので、やはりどうしても優先度が高いものに集中して取り組むべきだ。

器用貧乏、とはまさしくエッセンシャル思考とは対極な結果にあると思う。 私のようにいろんなことにうつつを抜かしていては何者にもなれない。

だが、実際には「不必要なことはやらない」というのはものすごく難しい。今持っているいろんなことを捨てることになりかねないからだ。 私はなかなかそれが実践できていない。不要だなと思っていても惰性で続けていること、人間関係、感情、さまざまな方面で、諦めるべきことを諦めれていない。

実践するには勇気と覚悟がいる。間違いなく、エッセンシャル思考は生きる上で正しい考えだと思う。 わかっているのにできない。もうしばらく何度か苦い思いを繰り返して、愚者らしく、経験に学んで実践に移していくしかないと悶々としている。

なぜ美しいものに触れるのか

美しいものに触れたい、美しいものを見たいというモチベーションは、多忙を極めるサラリーマンにとっては大変理解し難いものである。漸く手に入った有給という権利を行使できる日や、週末の酒の場や趣味によるリフレッシュ、そして怠惰な土日の過ごす時間などは、サラリーマンにとってはまずそれこそが非常に大切だからだ。 つまり、基本的にヒマがない、なのでヒマができたらなるべく休みたい、寝たい、というのが日本的サラリーマンの心情ではないだろうか。土日の内の片方、あるいは両方を家族サービスに充てるサラリーマンにとっては尚の事、自由な時間というのは砂漠で見つけるオアシスのようなものだ。

だが、そういった巡るめく忙しい日々を送っているからこそ、立ち止まって視野を広げるべきだ。世の中には身近な所に感動は潜んでいる。その中でもとりわけ、美しいものを見て、触れたりする機会はもっと大事にしたほうがよいと感じる。もちろん、人とのコミュニケーションの中にも感動は存在する。子供や配偶者、家族、友人、何気ない彼らと会話や、彼らの存在も、改めて考えれば実にありがたいことであり、それ自体に感動するばかりである。

それとは別に、美しいものを見て、触れて、どう思うかというのは、実に自分の内面に限った話なのである。そこに他者は基本的には介在しない。無論、その美しいものを作り上げた発信者・発案者・作成者、なんでもいいがそういう類の人間が関わっているのは間違いがないが、結局は自分がそれを見てどう思うかである。絵、音楽、オブジェ、詩、なんでもよいのだがその一端に触れ、非常に印象深く感じるもの、それこそが自分にとって美しいものである。

美しいものに触れるというのは、前述のとおり結局自分に触れるということなのである。もう一歩踏み出し、なぜそれを美しいと思うのか熟考するともっと良い。自分の本質がそこに垣間見える。何がやりたいとか、夢がないとかそういう話はどうでもいい。そういう自分にとって美しいもの、心を動かすものに触れて、自分はどうしたいのか。世間体や論理なんぞはどうでもいい、非常に主観的で直感的な、その美しさに触れることこそが大変に尊いことであり、そして自分自身を成長させる足がかりになるのである。

正直いって、人はこれなしには大きくは前進しない。そのような感動がなければ私たちは惰性的に同じ日々を繰り返すことになるだろう。生きる途中途中で、美しいものに触れることで、私たちは心動かされ、他人にとってはどうでもいいことでさえも、没頭していく。その先に非日常が待っており、新たな自分の扉を一歩を踏み出すきっかけになる。それによって私たちは同じ日々の繰り返しから脱出することができ、自分自身を知り、人生が尊いものだと気付く。忙しい、そう思うときこそ、我々は美しいものに触れる努力をするべきだ。

全体主義と個人主義

日本の全体主義、欧米の個人主義

日本人の文化は全体主義だと言っていいだろう。協調を重んじ、和を乱さず、空気を読んで生きる、という考えは個人よりも全体をとった結果だ。逆に、欧米は個人主義な人が多い(らしい。友人から聞いた)。全体に従うのではなく、自分に従い、空気を壊そうが言いたいことは、基本的に言う。これほどまでに違いがあるのは、生きている環境によるものが大きい。簡単に言えば日本人は画一的で欧米人は多様的だ、ということである。日本には欧米に比べればほとんど移民はいないし、価値観が同一なので、言わなくてもなんとなくわかるし、主義主張があっても、突飛なことは言いづらく思えてしまう。逆に欧米人は移民が多いので、もともとの価値観が違い、言わないと分かってもらえない。その差によるものだ。

日本人の個人主義

そして、日本人もどんどん個人主義的になろうとしている。なぜなら格差が生まれているからだ。前述の通り、全体主義であるにはまず価値観が同一、つまりバックグラウンドが一緒である必要がある。ステレオタイプな昭和の暮らしのように、男は仕事、女は家事、だとか、小学校から高校・大学まで必ず卒業し、そして就職したら生涯同じ会社で働く、というように。だが、言わずもがな、経済に格差が生じ、必ずしも皆が皆、同じ生活を営むことはできなくなっている。そうすると価値観が違うので、言わなくてもわかってもらえる、ということがなくなり、自分の意見を言うようになる(ちなみに日本人は主張することに慣れてないので、圧倒的にこれが下手)。空気が読めないだとかゆとり社員がどうだとかが話題になったりするのは、そういうことが発端なのである。経済格差を原因に、生活スタイルや趣味趣向、価値観が細分化されはじめた今日の日本人として、個人主義に走るのは、当然の流れなのである。

全体主義個人主義、どちらがよいか

個人主義的思想をもつ若い人だと、全体主義は悪だと捉えるだろう。言いたいことをいい、やりたいことをやる、個人主義こそが崇高な思想であると思うだろう。それは半分そのとおりだが、半分は間違いだと思う。まず、全体主義とは何か、というとあえて過激な言い方をすれば「全体のために個を殺す」ということにほかならない。個の幸せより、全体の幸せをとり、その御蔭で皆が生きていける、という発想だ。逆に、個人主義はどうか。個人主義を端的に言うと「個のためなら他の人が死んでも構わない」ということだ。自分は残業したくないのでさっさと帰り、そのせいで他の人が犠牲になろうと、知ったこっちゃない、自分は給料をもらえてるし、それでいい。と思ったりする人もいるだろう。

もちろん、自身の幸せは大事だ。しかしながら、人は支え合わなければ生きていけない種族でもある。相互扶助無くして、文化的営みは期待できない。自分だけが富を得て、他の人が全員貧乏だとする。そうすると価値観が違いすぎて友達もできず、同じ目線で遊んだり話したりできないので、孤独だ。それに、周りが貧乏だと治安が悪化してしまう。経済活動が鈍化すれば売買されるものが少なくなり、嗜好品や高級品、金を持っていれば欲しいと思うであろうものは手に入らなくなってしまう。個人主義を突き詰めれば最終的には、自身すら、不幸になるのだ。

全体主義個人主義の中間

全体主義は確かに良くないが、だからといって個人主義も良くない。我々が目指すべきはその中間である。厳密に言えば中間というよりも、全体と個、両方を考える、ということだ。なにをそんな聖人君子のようなことを、と思うかもしれないが、それほど難しい話ではない。まずは個人主義でいい。それに満足したら近しい人に手を差し伸べる程度でいい。例えば、先程の残業が嫌な人の例をあげると、残業が嫌なのでただ帰る、ということではなくて、そもそも全員が残業しないでいいように業務改善をしたり、仕事の調整をみんなで図ったりするようにすればいい。まずは自分が満たされるのを先決、としてもいいが、余裕が出てきたらその分を周りにわけ、全員が幸せになるように計らうのだ。ここで大事なのは責任を持ちすぎないこと。出来る範囲でやること。まず、自分という一人が満足し、余裕がでたら周りの二、三人のために何かする。その施しを受けた二、三人も周りのためになにかできるようになれば、自然と全体が幸せになる。無理しない程度に全体主義。周りとコミュニケーションをとってみる、というだけでも相当変わる。日々出来ることをやっていけばいいと思います。

批判に弱すぎる人へ

最近下記のような、PTAについて、入りたくないだとか、なくなってほしいというネット記事をしばしば見かける。下記の記事も数日前に投稿されたものだ。 以降、下記の記事をサンプルに話を進めるが、投稿者を批判するようなことが言いたいわけではなく、あくまで心理的側面についての分析なので悪しからず。

anond.hatelabo.jp

まず、この手のセンセーショナルな主張をする人は、他人からの「批判」に対して大変脆い、という傾向にある。

役員できないっていったら悪口 役員会議参加できないっていったら悪口 みんな同じライフスタイルじゃないんだから 専業主婦基準の平日日中なんてできるわけねーだろ

引用すると、例えば上記の部分がそうだ。「専業主婦基準の平日日中なんてできるわけねーだろ」という一文は、PTAのあり方についての主張というよりも「悪口」に対する返答に見える。そもそも「PTAはこういう問題があるのでこう改善するべきだ」「もとが欠陥なのでなくすべきだ」というようなPTAに対する純粋な主張だけならば、誰にどう批判されたかはあまり関係ない。これが冒頭部分にあるということは、恐らくこの記事を書こうとおもったのは、実は他人から批判を受け、耐えきれなかったからだと思われる。「PTAへの非難」という主張を介して、”「悪口」を言っている人がおかしく、自分は悪くない”と自己肯定するために投稿した、と私は捉えている。それが全てではないにしろ、投稿をするきっかけにはなっている。このことは、最後に「ただの愚痴と不満です、すいません」と書いてあることからも読み取れる。逆に、仮に悪口を言われなかったとしたら、このセンセーショナルな記事は書かれなかったのかもしれない。

批判に対する適性がない日本人

そもそも、日本人自体が批判に大変弱い。私は、お笑い芸人の厚切りジェイソンは、日本人に対しておかしいところをズバっと指摘するところが、小気味よく、確かに、と納得させられることもあり好きだ。だが、某有名掲示板あたりをみていると、「不満ならアメリカ帰れ」という投稿がかなりの頻度である。厚切りジェイソンは「日本のここがおかしい」と言っているだけなのであって、住みたくない、と言っているわけではない。そりゃ、住みたくない、というならば、じゃあ帰ったほうがいいのでは、とは思うが決してそうは言っていない。むしろ、これからも心地よく生活できるよう、改善できるところは改善していこうよ、と前向きな主張をしているわけである。にも関わらず、自分が住んでいる日本に対して批判があると、脊髄反射のように言い返してしまう。この例のように、批判に対して大変弱い人が多い。 日本人は協調性を重んじ、「寡黙こそ美徳」、つまり空気を読むことを大変重んじる。徹底的にそう教育されてきたと言っても過言ではない。自分と他人が同調している、という感覚が非常に大切に思う。だからこそ、非難されると大変な不安に陥る。その不安がきっかけで怒りに転じるのだ。

誰が悪いのか、という悪人探しから脱却する

このようなことも、アドラーに倣えば結局「他人からの評価を恐れるな」としてしまえば話は早いのだけども、なかなか急には難しいので、少し考え方を変えてみるだけで改善されるかもしれない。

  • まず、あらゆる主張や意見は尊重されるべきである、ということだ。批判であろうが、賞賛であろうが、同調的であろうが反対的であろうが、みな平等な意見である。そもそも、人間はみな平等である。つまり、どの人間が発した主張もみな平等なのである。言わなくてもみんな理解していることだが、それを忘れてしまうことが多いのではないか。
  • 次に、悪者探しをしないことである。他人の意見が間違っているのか、自分の意見が間違っているのか、つまり、どちらが悪いのか?ということを延々と答えを探している人も大変多く見かける。某有名掲示板でも「これって私が悪いんですかね」と他人に意見の善悪の判断を求める投稿も本当に多い。率直に言って、これは滑稽である。なぜならば、この場合、明確な答えなど存在しないからである。明確な答えがあればそもそも主張や意見はすれ違わない。言い方をかえれば、どちらも正しい(どちらも間違っていない)のである。さらにいえば、意見はあくまで意見なので、正しさを求めるものではない。批判的意見も、同様だ。自分はAだと思い、相手はBだと思う。主張や意見が違ってもどちらが一方がおかしいということはほとんどない。

自分に従う

あらゆる主張や意見は平等だしそれぞれ尊重されるべき。そして確実な正解はない。「じゃあ結局はどうするのか」ということだが、自分に従うだけでよい。自分の主張や意見こそがベターだと思うのならそれを実行したらよいし、相手の主張もきいてみて、再考の余地がある、と思うならそうしたらよい。悪口を言われて「確かにそうかもしれないな」と思うことがあれば直したらいいし、「ただの人格攻撃だな」と思うのなら何もしなければよいのである。逆に、やってはいけないことは、他人の意見を鵜呑みにすることである。繰り返すが、意見がすれ違っている時点で、確実な答えは存在しない。他人に頼ってもそれが正しい道とは限らない。だからこそ、自分で考えて自分で選択することが大事なのだ。仮に間違ったとしても、他人のせいにしなくて済み、精神衛生上非常によろしい。考えても考えてもわからなければ、あとは直感に頼るのだ。他人のために生きるのではなく、自分のために生きるよう努めるのだ。

他人の言いなりになる必要はない。ブラック企業やブラックバイトの言いなりになる人達

最近、ブラック企業やコンビニバイトに対する冷遇について、ネット上などで記事が散見される。 最近見たものだと、下記のような話がある。

コンビニ店長が高熱を出したバイトに言い放った「なぜバイトがないときにインフルエンザにかかっておかなかったの?」がパワーワードすぎる

コンビニ店長とアルバイターのやりとりを要約すると、

  • 上記Tweetをしているアルバイターがインフルエンザで高熱になり、バイトの休みを希望している(その部分は明記されているわけではないが)
  • アルバイトが勤めているコンビニの店長は、代わりに出勤するアルバイトがいなければ、休むなという。さらにインフルエンザにかかったことに対して叱責、嫌味を言う。
  • アルバイターは謝罪し、出勤する、と言う。

上記に対して、ネットユーザーの数多くは店長を非難をしている。一般的に見て、店長がおかしなことを言っているのは間違いない。だが、私は店長のアルバイターへ対する態度よりも、アルバイター自身と、店長を非難する人が多すぎること自体が、問題である、と考える。

なぜ、おかしい人の言いなりになるのか

端的にいって、ここでの一番の問題点は、「納得していないことに対して自分の意志を曲げてでも従う」ということに集約される。
このやりとりのスクリーンショットTwitterにアップしている時点で、アルバイター本人も「これはおかしい」と理解している。そして、多くのネットユーザーが非難している点を付加すると店長がおかしなことを言っているのは間違いない。にもかかわらず、店長の言いなりになるばかりか、謝罪までしてしまっている。「おかしな店長だ」という意見は数多いが、この状況こそが、最も問題である、という認識があまりにもされていないし、非常に残念に思える。

店長は「災害」だ

例えば、友人らとサッカーする予定だったのに突然の悪天候によって、それができなくなった場合、天気を非難することは、まずない(子供ならともかく)。雨が降ること自体に”ムカつく”ことはあれど、「ああ、雨がふってしまった。楽しみにしていたのに、日を改めるか。やれやれ、皆と連絡とりあわないと」となるのが関の山である。悪天候だけでなく、その他の状況や、今回のようにインフルエンザなどの体調不良になってしまっても、大体そんなものだ。我々は天気や災害、その他の「仕方のないこと」によってその都度柔軟に対応していく。
話を戻す。実は、店長のパワーハラスメントともとれる振る舞いは、受け取る方からすると「仕方のないこと」であり、雨や災害そのものなのだ。日本憲法の法の元生きている我々は、表現の自由が認められている。天皇や首相を批判しようとも、ありがたいことに逮捕されたりはしない。侮辱罪や名誉毀損罪など、他人に直接の被害をもたらすもの以外は、大抵、何を言っても自由だし、許される。だから、店長が「インフルエンザだろうと、出勤しろ」と言うこと自体は、例えおかしな発言だとしても、発言すること自体を止めることはできない(その結果、パワーハラスメントがあったとして社内的に処罰されるとしても)。 少し長くなったが、つまり他人は他人であって、天気や災害と同じで、まったく予測しなかった振る舞いや言動をすることもあって当然だと、我々は認識しなければならない。店長がどう言うかは自由であり、そして、アルバイター本人も、それに対してどう振る舞うかは自由である。急に雨が降った時、傘を差したり雨宿りするのも自由、という具合に。 店長の暴言という大雨が振ったのに、なぜかアルバイターは雨に濡れる(雷に打たれるくらいの酷な扱いだが)ことを選んでしまったのだ。

悪天候に文句を言う人はいない

雨が降っているのに、わざわざ自ら外に出て雨に濡れて、それに対して「濡れちまったじゃないか、なんで降るんだ!雨め!」と本気で声を荒げる人は、少なくとも私は見たことがない。傘を差したり雨が止むまで屋内にいるのが普通だろう。それと全く同じで、店長が「無理してでも出勤しろ」と言っていることに対して、そんなに体調が悪いのに文句を言いながら行くべきでは、明らかにないのである。まず、我々は何のために労働しているか考えてほしい。裕福に、幸せに、生きるために他ならない。死んだり、病気になったり、怪我をするために労働をするのではない。だから、上司や責任者がなんといおうと、それは自由だが、それによって自身が不幸せになるなら、それを回避するべきだ。死ねと言われて、素直に死ぬ人なんていないのと同じで、出勤しろと言われたからといってインフルエンザなのに素直に出勤するなんて、本来、あってはいけないことだ。

なぜ、無視ができないのか

この不条理に従う、というのは大変不思議であるといえる。だが、それなりに理由はあるだろう。例えば下記のようなことだと認識している。

  • 他人や自分は、それぞれ尊重され、そして自由だという認識の希薄さ
    まず、アルバイター本人は、やりとりをインターネットに晒してしまう程度には、店長の意見を尊重していない。こんな意見尊重できるか、という話ではあるのだが、その意見はあくまで、我々一般の意見から遠い場所にある意見だ、というだけであり、一つの意見であることにはなんら変わりないのである。日本人にとって、自宅に土足で上がられると大変嫌な思いをするが、欧米人にとっては普通のことだったりするように、「普通」というのは非常に揺らぎやすい。店長が非人道的なことを言っていたとしても、それはただの意見であり、それが店長にとって「普通」であり、一つの意見として尊重されるべき。そして、アルバイター自身の意見も自ら尊重するべき。「店長はそう思うのだろうが、私は無理してまでいきたくはない」と言うだけの話なのだ。

  • 短絡的な発想
    何事にも抗わないのは、短期的に見て非常に楽だ。意見を主張する、というのはお互いの意見が食い違った場合、説得したり妥協のしあいをする必要があり、一言でいって「めんどう」である。ただし、だからといって、後々負担になるのだから、常に言いなりになってしまう行為は「めんどう」の先送りでしかない。多少面倒であろうと意見をしっかり言う必要がある。相手方にとって失礼ではあるが、今回のように体調不良でそんなことをする余裕がなければ、それこそ無視を決め込んでもいいだろう。まずは自分の命を守ろう。インフルエンザは死の恐れすらある。短絡的な発想に命を奪われてはならない。

  • 視野が狭い
    他にも理由があるにせよ、一番はこれだ。まったくもって視野が狭い。コミュニティ(この場合はコンビニのバイト)に嫌われたら終わりだ、と思っている人が非常に多く、今回のアルバイターもそうだ。店長の言いなりにならなければ、クビになってしまうおそれや他の店員の迷惑になり、アルバイター本人が非難される恐れは確かにある。だが、それは実際は大したことではない。仮にこのアルバイトをバックレてしまったとしても、その影響は微々たるもので、二度とアルバイトできない、就職できない、ということはまずありえない。仮に多少晒し者にされたとしても、引っ越せば終わりだ。嫌われるのが嫌なのはある意味本能的な感情なので、理解できるが、それでも死ぬのはごめんだし、他人にインフルエンザを移すようなことはしたくない、と私は思う。

視野を広げよう

日本人は非常に視野が狭い人種だと言える。なぜかというと、大体が画一的な生き方をしているからだ。人生はこうあるべき、というコモンセンスが浸透しておりの、ールを外れることを大変怖がる。少し視野を広げれば色々な生き方があることに気づく。少なくとも、日本に生まれて育つ、というだけで非常に幸せなことなのだ。生活保護はあるし、少なくとも現時点で戦争の脅威にも巻き込まれる恐れはない。生きているだけで儲けもん、である。生まれた時点でボーナスステージ。だから、たかがちっさいコミュニティに嫌われることを、恐れてはならない。日本だけでも1億以上、世界で70億以上の人間が生きており、それらの人全員に嫌われることなんて不可能であろうから、馬が合う人、コミュニティはすぐ見つかる。愚痴るヒマがあったら、人目なんて気にせず、気楽に、好きにしましょう。

補足

精神的に追い詰められた場合は、正常な判断を下せなくなることはもちろんあり、それによって死んでしまうこともある。だからこそ、日々、追い詰められないように、他人の言いなりにならず、自分の気持ちに従うべきだ。

お金は貯めるべきものではなく、流れを良くするべき

同年代の友人の貯金は果たしていくらか、私のように30も手前になれば気にしたことがない人はいないだろう。日々浪費せず、計画的に節約し、堅実に貯金をしていくことは美徳であり、賢く生きるための1つの必須条件だと思えるほど、貯金は良いことという認識が浸透している。 私は物欲はそこまでないが、お金を貯めることはあまりできなかった。特に前職に在籍しているときはそうだった。なぜなら、単純に収入が少なかったからだ。手取り月二十数万、ボーナスなしでは実家ぐらしでもない限り、よほど節約していないと貯まらない。私の場合はむしろジリ貧であったし、今は独立して収入を得ることができているが、退職時は貯金がついにほぼゼロだった。だが、収入が倍以上になった今でも貯金はろくにできていない。できていない、というかあまりしようとしていない、というのが実際だ。ワーキングプアから、現在の収入になって、お金に対する保守的な考え方が改まったからである。

お金は使う以外にしようがない

私があまり貯金をしたがらない最たる理由は「お金は使うためにある」という単純な思想からだ。お金は持っているだけでは価値はなく、使って始めて価値が生まれる。必要以上にモノを買う必要はないが、貯めたお金よりも、旅行にいったり美味しいものを食べたり、そういった享楽や娯楽に使う方が価値があると考える。新たな経験は新たな価値観や気付きをもたらし、より人生を豊かにしてくれる。

お金の価値は下がり続ける

残念ながら、基本的に、お金は置いておくだけでは価値が下がる。つかってない限り数値上は不変だと思われがちだが、時代の流れとして、金はインフレをたどる一方だ。これによれば、昭和40年代の1万円は、現代でいうと価値は2万円から4万円であったとされている。政府は紙幣を必要に応じて刷り続けるので、お金の価値が下がり続けるのは考えてみると当然だし、不可逆である。日本にだけおいてみればその流れが緩やかだとしても、外国為替をふくめて見ると、非常に流動的であっとういまに価値が下がることもある(上がることもありえるが、放っておくとまた下ったりもする)のでより注意が必要だ。また、特にバブル期など羽振りがいい時代は金利があがるため、貯金すれば放っておいても金が増えたものだが(話しによれば景気のいい時代に10年も預ければ2倍にもなったとか)、この低金利時代にはそういったことも望めない。今は、投資などお金をうまくつかわなければ損をする時代になっていると言える。

時間>お金

また、時間を犠牲にしてまで貯金に励みたくない、ということもある。お金と時間は容易に交換できる。たとえば時給の労働。1時間が800円とかに換金できる。これならまぁ、効率がそこまで悪いとは言わないが、、節約のために家事や面倒事を自分でぜんぶやると時間が膨大に必要になるし、効率も非常に悪くなる。家事に時間を使って、その疲労を回復するためにまた時間を要するのである。それならば、多少金を使おうとも、楽した方がいい。家政婦を雇うでも、高性能な白物家電を買うでも良いが、楽して休んだほうがむしろ生産的だ。無駄に金を使うべくもないのは当然だが、だからといって必要以上に節約しようとするとより貧乏になるのは間違いない。10円、100円の違いで遠いスーパーに出かけてしまう行為は、その愚行の最たるものである。

安心を得るために貯金をするのは、あまりよくない手段

貯金をする最大の動機としては、何かあったときの生活の担保であると思う。確かに急に重い病気にかかって仕事ができなくなったのに貯金がゼロ、というのは先行きが暗すぎる。だが、貯金だけではまるで安心できない。先にあげたとおりお金の価値は下がるのもそうだが、貯金は、使ってしまうともうそれで終わりなのが最大の欠点だ。今までの苦労が水の泡と化す。日々のちょっとした贅沢さえ我慢し、家計を見直し、やっとこさ貯めたお金は、何かのトラブルで一瞬でなくなる可能性がある。そうなると今までの苦労は一体何だったのだろうか。この方法だと同じくらいの預金額に戻すには同じくらいの労力と時間をかけなければいけない。お金を貯めること「だけ」を考えると非常に危ういし、安心などできやしないのである。

お金の停滞と流れ

私はお金の価値を最大限利用するためにお金を使うようにしているが、安心のためにお金を得るためにはどうやればいいかということも最大限考えている。つまり、お金の価値をしっかり理解し、正しく使うようにすることで、お金を得るためのことにも気が向く、というサイクルだ。金を使えば金が入る。金は貯金で停滞させるようにするのではなくて、出て行くお金と入るお金の流れを作るべきなのだ。ここで、貯金しながらお金が入るようにすればいい、という安直な考えを試してみたくもなるが、それは大体においてうまくいかない。お金が貯まると現状に満足し、安心してしまうからだ。前述の通り安心というには少し心許ない状況なのに。お金をせき止めてしまうと、それ以上流入させる気はおきない。相当ストイックな人なら可能かもしれない。ただし、お金をうまく使えない人は、うまく稼ぐことは難しい。お金を稼ぐという行為は、お金を使う行為と背中合わせだからだ。株、為替、資産運用、結局お金を使う(投資)からこそ、そのリターンとして利益がうまれるのだ。お金を使わないで稼ぐ方法といえば普通の労働しかなく、稼げる範囲も限られてくる。金を上手に使える人は、普通に働きながらも投資したり副業したり、いろんな事を考えるようになるのだ。

お金の概念がなくなる

余談だが、このまま文化が発展すればお金の概念すらなくなるかもしれない。クレジットカードや電子マネーのみを使って生活しているとそういう気分になってくる。かの有名な堀江貴文氏によれば、お金よりも信用があることが大切だという。たしかに、仕事などにおいては信用に勝るものはないだろう。信用さえ得られればいくらでも投資してもらえるし、いくらでも稼げるようになる。お金の概念はなくなり、信用だけ、まさに本当の意味でのクレジットカードができあがるかもしれない。お金を貯めるのではなく、お金を使ってお金の入る仕組みを作る。そういう人は借金を背負うことになったとしても、お金の流入はしっかりあるし増やそうとするので行き倒れることはない。まさに(金銭的に)信用できる状態だといえよう。そういう状態になればお金の心配はいらなくなる、はずである。

仕事至上主義から脱することで、仕事も人生もうまくいく

最近、徐々に私の仕事への考え方、姿勢が変わってきている。もともと、どちらかというと、多少ストイックな性分なので、仕事の上でも自分に厳しい方だ。 例えば今週は何時間働けたかとか、無駄な時間を排除してどれだけ仕事に充てることができるかとか、そういうことをたくさん考えて実行していた。

それはいわゆる仕事ファーストな考え方だと思う。仕事をする、という行為は素晴らしいことで、働くことこそ何にも勝る美徳である、と無意識的に捉えていた気がする。これは私だけではなく、世間的に言えば働いている大体の人が同じような仕事観を持っていると思う。仕事至上主義。だからこそ、毎日残業、休日出勤は当たり前、たまの休みは寝てるだけ、の人もやっていけてるし、忙しかったり一生懸命働いていると、賞賛の対象になったりする。

しかし、ここにきて、その仕事至上主義を脱したいという気持ちが出てきた。忙しくなるとふと考える。「何のために働いているのか」。ゲンキンなことを言えばお金を稼ぐためである。無論、人の役に立ったり、やりがいを感じたりというものもあるが、それらは副産物の1つだ。それらは(給料のもらえる)仕事を通さなくとも、ボランティアやスポーツなどで得ることができるだろうし。

考え方を変えるきっかけになった1つの要因は、ロボットや人工知能の台頭だ。いくつかの革新的技術によって、そのうちに車は自動運転になりそうだし、コンビニも無人運営になりそうだ。もっと身近なところでいえば、一部レジの無人化であったり、英語の翻訳も素晴らしい精度に仕上がってきた。その内に私の職である、プログラミングも自動化されていくだろう。そうすると私達の仕事はなくなる。厳密に言えば、仕事はなくならないが、かの産業革命後のように、仕事の内容が大きく変わる。仕事がなくなる、というのはあくまで今までのやり方ではなくなる、ということで、新たな仕事が創出されていくだろう。
人間の長い歴史を振り返ってこのことを鑑みると、ある1つの傾向が読み取れる。それは「仕事は、楽に、短くなってきている」ということだ。大昔、旧石器時代の"仕事"と言えば言うまでもなく狩りであろう。(やったことはないので実際にはわからないが)狩りはものすごく労力がかかる。武器をもって獲物を追っかけまわさなければならないし、逆襲されて死ぬ恐れさえある超過酷な重労働だ。ブラック、なんて言うレベルではない。しかも毎日獲物を確保できるとは限らず、数日かかってようやく飯にありつける、ということも珍しくないだろう。つまり、労働時間も圧倒的に長い。現代のように、8時間働いて定時になったから帰ります、という具合にはいかないのだ。それこそ本当の意味で死ぬ気で取り掛からなければいけない仕事だったのである。その直後の"産業革命"に当たるのが穀物栽培や酪農であろう。狩りと比較すると安定的な生活をおくることができるようになったはずだ。殺されるリスクや労働時間は確実に減ったといえる。

そういった時代から長いときを経て、お金という概念ができあがり、それまで曖昧だった仕事に対する認識も「仕事・労働」としてしっかり認識されはじめ、職業が確立されてきた。1900年代、日本では例えば飛脚や大工、竹細工を作るといった職業あり職人がいた。その時の"休暇"といえば月に二回程度だという。それでも大昔と比較すればものすごい進歩である。死ぬか生きるか、おそらく毎日のように行われていたであろう"仕事"が、安全で、しかも月に2回も休めるようになったのだから。それからさらに100年以上経った現代は、月に8日〜10日は休みだし、重労働は一部を除いて大分減った。先に例を挙げた飛脚などはそれこそ毎日自分の脚で走り回る必要があったが、今時の物流や配送はもちろん車やバイクである。個人的には、思ったより休暇は増えていないな、と感じるのだが、全体の労働時間も減っていることは想像に難くないし、仕事内容自体もものすごく「楽になった」のだと言えよう。

さて、過去から辿り始めると長くなってしまったが、このように「仕事は、楽で、短くなってきている」というのは明らかであろう。この傾向を考慮すれば、今後の私達の仕事はもっと楽になり、もっと休みも増える。非常に喜ばしいことだ。そう考えると「仕事とはなんなのか」ハッとさせられる。何のために働いているのか、という問いに戻れば、原始的なことを言えば「生きるためである」と言っても過言ではない。これが昇華して、やりがいだのそういったことが目的になってきているとすれば、逆に、生きるために働いているという意義は薄れてきて、詰まるところ、働くことの重要性はなくなってきている、ということだ。

自分も何がやりたいのかははっきりとまだわかってないが、仕事が収縮していく以上、我々はその代わりになにをやるか、ということを今のうちに考えておいたほうがいいと思う。これはなんでもいい。趣味に時間を使うとか、旅をしてみるだとか。とにかく、昔に比べてやりたいことが圧倒的にやりやすくなっているし、もっとやりやすくなることは間違いない(戦争が起きれば、別の話になるが)。仕事が人生だ、などと思わず、もっとやりたいことに焦点を当ててもいいはずだ。特に我々日本人は仕事以外のやりたいことをおざなりにしてきた、と言っても良い。過労死やブラック企業が蔓延ることがそのことを裏付けている。

そうこう考えているうちに、「そこまでストイックに仕事ばかりやる必要もないなぁ」と思ってきたのだ。もちろん仕事が楽しい人もいるだろうが、それらの行為は大抵は仕事を通さずともできることだ。やりたいこと、楽しいことは仕事外でもどんどんやっていく。そして仕事をなるべく楽に短く終わらそうとする。これは手を抜くということではなくて、効率性やアウトプットの質をあげる、ということだ。無論だが、仕事なぁなぁにして、職をもらえなくなってしまってはそれこそ(今は)生きてはいけないからだ。仕事至上主義の考え方から脱することで、その副産物として仕事はもっとクリエイティブで生産的になっていくのだ。とすればやはり、今から次なる"産業革命"に向けて準備をしておいたほうがよい。仕事至上主義をやめ、自分のやりたいこと、楽しいこと、つまり、遊びを追求していく。それこそが今風(いや、楽に楽しく生きることを追求しているという意味では過去と変わりない)の生き方なのだと思う。