Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

お金は貯めるべきものではなく、流れを良くするべき

同年代の友人の貯金は果たしていくらか、私のように30も手前になれば気にしたことがない人はいないだろう。日々浪費せず、計画的に節約し、堅実に貯金をしていくことは美徳であり、賢く生きるための1つの必須条件だと思えるほど、貯金は良いことという認識が浸透している。 私は物欲はそこまでないが、お金を貯めることはあまりできなかった。特に前職に在籍しているときはそうだった。なぜなら、単純に収入が少なかったからだ。手取り月二十数万、ボーナスなしでは実家ぐらしでもない限り、よほど節約していないと貯まらない。私の場合はむしろジリ貧であったし、今は独立して収入を得ることができているが、退職時は貯金がついにほぼゼロだった。だが、収入が倍以上になった今でも貯金はろくにできていない。できていない、というかあまりしようとしていない、というのが実際だ。ワーキングプアから、現在の収入になって、お金に対する保守的な考え方が改まったからである。

お金は使う以外にしようがない

私があまり貯金をしたがらない最たる理由は「お金は使うためにある」という単純な思想からだ。お金は持っているだけでは価値はなく、使って始めて価値が生まれる。必要以上にモノを買う必要はないが、貯めたお金よりも、旅行にいったり美味しいものを食べたり、そういった享楽や娯楽に使う方が価値があると考える。新たな経験は新たな価値観や気付きをもたらし、より人生を豊かにしてくれる。

お金の価値は下がり続ける

残念ながら、基本的に、お金は置いておくだけでは価値が下がる。つかってない限り数値上は不変だと思われがちだが、時代の流れとして、金はインフレをたどる一方だ。これによれば、昭和40年代の1万円は、現代でいうと価値は2万円から4万円であったとされている。政府は紙幣を必要に応じて刷り続けるので、お金の価値が下がり続けるのは考えてみると当然だし、不可逆である。日本にだけおいてみればその流れが緩やかだとしても、外国為替をふくめて見ると、非常に流動的であっとういまに価値が下がることもある(上がることもありえるが、放っておくとまた下ったりもする)のでより注意が必要だ。また、特にバブル期など羽振りがいい時代は金利があがるため、貯金すれば放っておいても金が増えたものだが(話しによれば景気のいい時代に10年も預ければ2倍にもなったとか)、この低金利時代にはそういったことも望めない。今は、投資などお金をうまくつかわなければ損をする時代になっていると言える。

時間>お金

また、時間を犠牲にしてまで貯金に励みたくない、ということもある。お金と時間は容易に交換できる。たとえば時給の労働。1時間が800円とかに換金できる。これならまぁ、効率がそこまで悪いとは言わないが、、節約のために家事や面倒事を自分でぜんぶやると時間が膨大に必要になるし、効率も非常に悪くなる。家事に時間を使って、その疲労を回復するためにまた時間を要するのである。それならば、多少金を使おうとも、楽した方がいい。家政婦を雇うでも、高性能な白物家電を買うでも良いが、楽して休んだほうがむしろ生産的だ。無駄に金を使うべくもないのは当然だが、だからといって必要以上に節約しようとするとより貧乏になるのは間違いない。10円、100円の違いで遠いスーパーに出かけてしまう行為は、その愚行の最たるものである。

安心を得るために貯金をするのは、あまりよくない手段

貯金をする最大の動機としては、何かあったときの生活の担保であると思う。確かに急に重い病気にかかって仕事ができなくなったのに貯金がゼロ、というのは先行きが暗すぎる。だが、貯金だけではまるで安心できない。先にあげたとおりお金の価値は下がるのもそうだが、貯金は、使ってしまうともうそれで終わりなのが最大の欠点だ。今までの苦労が水の泡と化す。日々のちょっとした贅沢さえ我慢し、家計を見直し、やっとこさ貯めたお金は、何かのトラブルで一瞬でなくなる可能性がある。そうなると今までの苦労は一体何だったのだろうか。この方法だと同じくらいの預金額に戻すには同じくらいの労力と時間をかけなければいけない。お金を貯めること「だけ」を考えると非常に危ういし、安心などできやしないのである。

お金の停滞と流れ

私はお金の価値を最大限利用するためにお金を使うようにしているが、安心のためにお金を得るためにはどうやればいいかということも最大限考えている。つまり、お金の価値をしっかり理解し、正しく使うようにすることで、お金を得るためのことにも気が向く、というサイクルだ。金を使えば金が入る。金は貯金で停滞させるようにするのではなくて、出て行くお金と入るお金の流れを作るべきなのだ。ここで、貯金しながらお金が入るようにすればいい、という安直な考えを試してみたくもなるが、それは大体においてうまくいかない。お金が貯まると現状に満足し、安心してしまうからだ。前述の通り安心というには少し心許ない状況なのに。お金をせき止めてしまうと、それ以上流入させる気はおきない。相当ストイックな人なら可能かもしれない。ただし、お金をうまく使えない人は、うまく稼ぐことは難しい。お金を稼ぐという行為は、お金を使う行為と背中合わせだからだ。株、為替、資産運用、結局お金を使う(投資)からこそ、そのリターンとして利益がうまれるのだ。お金を使わないで稼ぐ方法といえば普通の労働しかなく、稼げる範囲も限られてくる。金を上手に使える人は、普通に働きながらも投資したり副業したり、いろんな事を考えるようになるのだ。

お金の概念がなくなる

余談だが、このまま文化が発展すればお金の概念すらなくなるかもしれない。クレジットカードや電子マネーのみを使って生活しているとそういう気分になってくる。かの有名な堀江貴文氏によれば、お金よりも信用があることが大切だという。たしかに、仕事などにおいては信用に勝るものはないだろう。信用さえ得られればいくらでも投資してもらえるし、いくらでも稼げるようになる。お金の概念はなくなり、信用だけ、まさに本当の意味でのクレジットカードができあがるかもしれない。お金を貯めるのではなく、お金を使ってお金の入る仕組みを作る。そういう人は借金を背負うことになったとしても、お金の流入はしっかりあるし増やそうとするので行き倒れることはない。まさに(金銭的に)信用できる状態だといえよう。そういう状態になればお金の心配はいらなくなる、はずである。

仕事至上主義から脱することで、仕事も人生もうまくいく

最近、徐々に私の仕事への考え方、姿勢が変わってきている。もともと、どちらかというと、多少ストイックな性分なので、仕事の上でも自分に厳しい方だ。 例えば今週は何時間働けたかとか、無駄な時間を排除してどれだけ仕事に充てることができるかとか、そういうことをたくさん考えて実行していた。

それはいわゆる仕事ファーストな考え方だと思う。仕事をする、という行為は素晴らしいことで、働くことこそ何にも勝る美徳である、と無意識的に捉えていた気がする。これは私だけではなく、世間的に言えば働いている大体の人が同じような仕事観を持っていると思う。仕事至上主義。だからこそ、毎日残業、休日出勤は当たり前、たまの休みは寝てるだけ、の人もやっていけてるし、忙しかったり一生懸命働いていると、賞賛の対象になったりする。

しかし、ここにきて、その仕事至上主義を脱したいという気持ちが出てきた。忙しくなるとふと考える。「何のために働いているのか」。ゲンキンなことを言えばお金を稼ぐためである。無論、人の役に立ったり、やりがいを感じたりというものもあるが、それらは副産物の1つだ。それらは(給料のもらえる)仕事を通さなくとも、ボランティアやスポーツなどで得ることができるだろうし。

考え方を変えるきっかけになった1つの要因は、ロボットや人工知能の台頭だ。いくつかの革新的技術によって、そのうちに車は自動運転になりそうだし、コンビニも無人運営になりそうだ。もっと身近なところでいえば、一部レジの無人化であったり、英語の翻訳も素晴らしい精度に仕上がってきた。その内に私の職である、プログラミングも自動化されていくだろう。そうすると私達の仕事はなくなる。厳密に言えば、仕事はなくならないが、かの産業革命後のように、仕事の内容が大きく変わる。仕事がなくなる、というのはあくまで今までのやり方ではなくなる、ということで、新たな仕事が創出されていくだろう。
人間の長い歴史を振り返ってこのことを鑑みると、ある1つの傾向が読み取れる。それは「仕事は、楽に、短くなってきている」ということだ。大昔、旧石器時代の"仕事"と言えば言うまでもなく狩りであろう。(やったことはないので実際にはわからないが)狩りはものすごく労力がかかる。武器をもって獲物を追っかけまわさなければならないし、逆襲されて死ぬ恐れさえある超過酷な重労働だ。ブラック、なんて言うレベルではない。しかも毎日獲物を確保できるとは限らず、数日かかってようやく飯にありつける、ということも珍しくないだろう。つまり、労働時間も圧倒的に長い。現代のように、8時間働いて定時になったから帰ります、という具合にはいかないのだ。それこそ本当の意味で死ぬ気で取り掛からなければいけない仕事だったのである。その直後の"産業革命"に当たるのが穀物栽培や酪農であろう。狩りと比較すると安定的な生活をおくることができるようになったはずだ。殺されるリスクや労働時間は確実に減ったといえる。

そういった時代から長いときを経て、お金という概念ができあがり、それまで曖昧だった仕事に対する認識も「仕事・労働」としてしっかり認識されはじめ、職業が確立されてきた。1900年代、日本では例えば飛脚や大工、竹細工を作るといった職業あり職人がいた。その時の"休暇"といえば月に二回程度だという。それでも大昔と比較すればものすごい進歩である。死ぬか生きるか、おそらく毎日のように行われていたであろう"仕事"が、安全で、しかも月に2回も休めるようになったのだから。それからさらに100年以上経った現代は、月に8日〜10日は休みだし、重労働は一部を除いて大分減った。先に例を挙げた飛脚などはそれこそ毎日自分の脚で走り回る必要があったが、今時の物流や配送はもちろん車やバイクである。個人的には、思ったより休暇は増えていないな、と感じるのだが、全体の労働時間も減っていることは想像に難くないし、仕事内容自体もものすごく「楽になった」のだと言えよう。

さて、過去から辿り始めると長くなってしまったが、このように「仕事は、楽で、短くなってきている」というのは明らかであろう。この傾向を考慮すれば、今後の私達の仕事はもっと楽になり、もっと休みも増える。非常に喜ばしいことだ。そう考えると「仕事とはなんなのか」ハッとさせられる。何のために働いているのか、という問いに戻れば、原始的なことを言えば「生きるためである」と言っても過言ではない。これが昇華して、やりがいだのそういったことが目的になってきているとすれば、逆に、生きるために働いているという意義は薄れてきて、詰まるところ、働くことの重要性はなくなってきている、ということだ。

自分も何がやりたいのかははっきりとまだわかってないが、仕事が収縮していく以上、我々はその代わりになにをやるか、ということを今のうちに考えておいたほうがいいと思う。これはなんでもいい。趣味に時間を使うとか、旅をしてみるだとか。とにかく、昔に比べてやりたいことが圧倒的にやりやすくなっているし、もっとやりやすくなることは間違いない(戦争が起きれば、別の話になるが)。仕事が人生だ、などと思わず、もっとやりたいことに焦点を当ててもいいはずだ。特に我々日本人は仕事以外のやりたいことをおざなりにしてきた、と言っても良い。過労死やブラック企業が蔓延ることがそのことを裏付けている。

そうこう考えているうちに、「そこまでストイックに仕事ばかりやる必要もないなぁ」と思ってきたのだ。もちろん仕事が楽しい人もいるだろうが、それらの行為は大抵は仕事を通さずともできることだ。やりたいこと、楽しいことは仕事外でもどんどんやっていく。そして仕事をなるべく楽に短く終わらそうとする。これは手を抜くということではなくて、効率性やアウトプットの質をあげる、ということだ。無論だが、仕事なぁなぁにして、職をもらえなくなってしまってはそれこそ(今は)生きてはいけないからだ。仕事至上主義の考え方から脱することで、その副産物として仕事はもっとクリエイティブで生産的になっていくのだ。とすればやはり、今から次なる"産業革命"に向けて準備をしておいたほうがよい。仕事至上主義をやめ、自分のやりたいこと、楽しいこと、つまり、遊びを追求していく。それこそが今風(いや、楽に楽しく生きることを追求しているという意味では過去と変わりない)の生き方なのだと思う。

自分の幸せを見つける旅

なぜ働くのか、なぜ結婚するのか、なぜ子を産み、育てるのか。(もしくはなぜ働かない、結婚しない、子供も作らないのか) 人は生きてる上で、様々な事を成そうとしている。意識している人は多分あまりいないが、自らの幸せを追求した結果、そうしている。大げさなことじゃなくとも、例えば山に登るだとか、マラソン大会に数多く出るとか、好きではない人からすると何故やるか全く理解できないが、それが好きな人は終わった後の充実感や達成感、そしてその過程をも楽しむ。特に日本人は会社や家庭、今の環境について散々の愚痴をこぼすが、その中でももがいて、なんとか自らの人生を楽しみ、幸せに生きようとする。

ただし、自分にとって何が幸せなのか、もっと単純に言えば、「何が好きなのか(あるいは何が嫌いなのか)」というのを完全に把握するには非常に難しい。おそらく不可能だと思われる。例えば私は南の方に住んでいるので、カーリングボブスレーなど氷が張っていないとできないスポーツはやったことはない。オリンピックなどの機会にTVで少し眺めたことがあるくらいだ。特に思い入れもない。もしもやってみることができるのなら、実は楽しいかもしれないし、可能性は低いだろうがもしかすると、私にはオリンピック選手並の秘めたる才能があるかもしれない。だが、やるまではわからない。それを試してみることは、まぁ不可能ではないが、好きかどうかもわからない、特にピンと来ないスポーツをするために雪国にまで行く時間とお金の余裕はない。このように、世界のあらゆる体験をすることなんて不可能だし、こういう風に例えを出せる分マシで、全く知らない体験は確実に世界にいくつも存在し、自分が生きているうちにできる体験は一握りと言えるだろう。

「好きである」というのは内なるモチベーションであり、爆発的な推進力になる。これはやるべきだ、これをやらないと怒られる、という外的モチベーションは一時的には効果を発揮するが、長続きはしない。最低限のノルマを達成すれば(あるいは達成せずに)終わってしまう。好きであればなんだってできる。私は好きでテニスをしているが、プロになるほどの才能は残念ながらない。それでも、なんとかうまくならないかと壁打ちをしたり数多くのゲームをこなそうとしてもっと上達しようとする。そして時間はかかるがなんとか少しずつ上達する。それはもちろん苦痛ではなく、その過程ですら楽しい。

もっとも恵まれているであろう状況は、好きであり、そしてそのための才能があることだろう。それを仕事にして稼ぐことができるからだ。テニスは残念ながらそうではないが、私はプログラマーとして生計を立てており、プログラミングをするのは好きで、才能は、なんとか仕事をこなせるという程度にはある(天才的・有能な人にはまるで敵わない)。割と早い段階でそういう職に有りつけたことは幸運なことだと思う。IT技術の世界は日進月歩で、勉強し、スキルや知識を向上させ続ける必要がある。それが苦だとは思わないし、努力だとも思っていない。仮に他人から努力と思われようが、私のようにITが好きな人にとっては単純に知的好奇心を満たそうとする娯楽的な行動である。職業としてだけでプログラマーをしている人であればまるで苦行だと思えることだと思う。努力だと思ってやる行為は長続きしない。

仕事について言及したが、もちろん、仕事だけに限ったことではない。生活や趣味、なんでも好きなようにやるのが最も良い。もちろん、好きなことをやるためにはいくつかの障害が待ち受けるが、本当に好きなことのためなら乗り越えられる。好きなことを思いつかない場合は嫌いなことはやらないということでもいい。それだけで大分人生はシンプルになる。愚痴を言っているヒマがあればそういうことに力を注ぐべきだ。

話が長くなってしまったが、好きなことのためなら継続して向上できるし、楽しい。好きなこと(そして才能があれば尚良い)が見つかれば、それに全力で取り組むことができる。人は自分の人生を幸せに生きるべく、毎日を過ごしているが本当に好きなこと(自分にとって幸せなこと)が見つけられてないのであれば、幸せに近づくのは時間がかかってしまう。見つけてしまえば、それに向かう爆発的パワーを以って仕事や生活がうまくいくようになる。しかし、前述したとおり本当に自分にとって好きなことを見つけるのは容易くはない。自分にとって何が幸せなのか、日々自問自答し、自分の心の中を発掘し宝を見つけるかのごとく、コツコツと自身を振り返るようにすれば人生が切り拓けるのだと思う。

過去は美化されるが本当に美しいとは限らない

過去は美化されがちである。自分にとって悪い記憶も、あの時あんなことがあったから頑張れたのだ、という感じだ。

あの時は厳しくして下さってありがとうございました、というような、かつての恩師や元上司に感謝の意を述べる場面をたまに見かける。
当時、本当に良く育ててもらったのならもちろん素晴らしいことだと思うが、"厳しい"というのに体罰モラハラパワハラが含まれているのであれば決していいことではない。それらは人間の尊厳を傷つける忌避すべきことであるのは明確だ。だが、それらでさえ、時間が経つと何故か美化されがちだ。

勘違い:過去の否定は現在への否定

人は基本的に間違っていることは認めたくないものである。間違いを認めるということは、その部分は直さないといけなくなるしその分労力がかかる、そして不安になる。だから、自分の行動や考えを否定したくなく、現状維持に勤めたい。特に、過去は変えることすらできないので、「過去が(自分にとって)良くなかった」とは認めたくない。現在は過去の延長だと考えているので過去を否定するということは、現在への否定につながる恐れもある。

歪んだ美化はやめるべき

ささやかな美化くらいならともかく、本来忌避されることを美化し、認めてしまうと、同じ過ちを繰り返してしまうことにつながる。仕事でパワハラを受けても耐えてしまったり、自分の子供が学校でいじめられたり体罰をうけてしまっても「そういうものだから」と学校に行くことを強要してしまうかもしれない。さらに過去の間違った美化によって、部下にパワハラをしてしまうなど、自分がされて嫌なことを相手にしてしまうようになる可能性もある。自分にとって良くない過去は認めたくないものだが、過去の否定は現在の否定ではないことを意識し、むしろ今をよりよくするために、過去の異常な美化、賛美はやめて正しい視点で振り返った方がいい。

海外いくと価値観が変わったり、やりたいことが見つかるのか

最近、とある用で1週間ほど海外出張をしていた。もともと私はヒッキーな性格なので「自分探しの旅に海外に行く」という人たちの気持ちはよくわからなかった。ただ、海外でしか得られない視野はあるのかもしれないなと思ってもいたが、今回の出張で、大きく自分の価値観が変わったりすることはないだろうという結論に至った。

まず、海外に行くには色んな体験ができるという意味では面白いと思う。見たことのない景色やイベント、アトラクション、文化の違いなどだ。ただ、娯楽として面白いのであって、そこから新しい価値観が生まれたりやりたいことができたりはしないと思う。しかも、そのような体験は国内でもある程度は満喫できる。日本国内だけでも、行ったことのない土地にいく楽しさは味わえる。 もっと言うと、今住んでいる場所でさえ新しい体験はいくつもある。私は最近では、ポケモンGoをプレイして、こんなところにこういう場所があるのか、と思わぬ発見がいくつもあったものだ。

だとすれば、どうやって価値観が変わったりするのかというと、場所や文化というよりは、人との交流で生まれるものだと思う。そもそも、価値観というのは、人同士による相対的なものでしかない。皆が同じ価値観であれば価値観という概念もなかったかもしれないし、やりたいことが見つからない、などと嘆く必要もない。つまり、どこにいようがどの人たちと交わるかで大きく価値観が左右される。私も今回の出張で刺激を大いにうけたが、それは一緒にいたクライアントだったりチームメンバーからであった。(文化的な違いはすぐに慣れてしまった。) 自分と違った人たちの話を聞くと、そういう生き方があるのか、考えようによってはどうとでも人生楽しめるものだなと感じる。ネガティブなパターンも存在するが。

しかしながら、最終的には結局自分次第であるということも付け加えたい。いくら他人の価値観を知れたからといって、それだけで何かが変わるわけではない。我々がもともともっている常識とか価値観というのは、実は自分以外の大衆によって作り上げられたものだからだ。学校では横並びの教育、社会に出てからは周りの目を気にする生活がある。車、家、家族、ほしいと思ったものは本当に自分がそう思ったものなのか?あなたが欲しいものはあなたが決めたのではなく、実は広告によって刷り込まれたものかもしれない。社会や常識に縛られ、その中から取捨選択をしようとしていないか。実は働かなくとも実は自給自足で生活する方が性に合っている人だっているだろう。自分だってそうかもしれない。大衆によって醸成された無意識的な自分の中の常識を捨て去れば、環境や他人から教わらずとも、人はいつでも自分の中の価値観を変えることができるし、やりたいことだってやっていける。

面白さ駆動

何かいろんな事やってる、あるいはかなり造詣が深い人、わかりやすく言うと「すごい人」と評価される人たちは、とにかく"面白さ駆動"だ。彼らは自分への利害はあまり求めない。やってて楽しければそれでいい。損得勘定をしないのでリスキーなことができるし、好きでやってるのでモチベーションも持続できて集中しているので、いつも素晴らしい成果を挙げる。結果的にそれが周りから"すごい"と評価されるだけであって、本人らは好きなことをやっていただけで特段すごいことはしていない、とさえ思っている。

それに比べて、一般的な人たちは、生活のために金を稼がなきゃ、とか、怒られたくないから真面目にしなきゃいけない、など"やるべき"で行動をしていることが多いと言えるだろう。やるべき、で物事を考えてしまうと、ある一定の"やるべきライン"を超えてしまうとそこで終わりだ。だからそれ以上はなにも生み出さない。それが悪いことでは全くないのだが、私がいいたいのは、そういう"やるべき"なことはなるべく減らしてしまい、自分が"面白い"と思えることに、自分の時間を投資したほうがトータル良いと思うのだ。

少なくとも私の周りの成功者は"面白さ駆動"によって事業を成功させている。「なんで◯◯したんですか?」といっても、あまり納得する答えは返ってこない。なんとなくやったとか、面白そうだと思ったから、あとで話のネタになるとか、そういうことを平気で言ってのける。損得勘定だけで考えると、やはり大胆なことはできないのだと思う。余裕がないとビジネスも成功しづらい。"面白さ駆動"の人たちは、なんというかもう勢いでやってるのでうまくいくときは相当うまくいく。それに、失敗を失敗だと捉えてないフシがある。うまくいかなくてもそれすら楽しむほどの余裕を感じる。好きなことなのでうまくいくまでやり続けるし、なにより本当に楽しそうだ。彼らを見ていると自分の打算的な行動は無意味だとすら思えてくる。生活している中で、ある種の生きづらさ、余裕のなさを感じてきたら、彼らに会うべきだ(そういう人たちは目立つので、一歩外に出れば案外すぐ見つかる)。楽しく人生を過ごすにはどうしたらいいかを改めて考えることができるようになる。

感性を大事にする

私はどちらかというと論理的思考を重んじる。時折屁理屈をこねてしまうこともある。だが、理屈で説明できないこともこの世には存在する。例えばどうやれば成功するか、だ。理屈や事実というのは、あくまで過去でしかない。過去の経験則に基づいて導き出すものだ。だから「こうやったから成功した」は言えるが、「こうやれば絶対に成功する」は言えない。不思議だ。もちろん経験則を利用することは非常に有効だ。過去から未来を予測し、ある程度先のことならどうなっているか見通せる。だが、その見通しでさえ、想像であり本当にどうなるかはその時点に到達しないとわからない。確実性は低いので、あくまで論理はあくまで補助的な役割である、と割り切ったほうがいい。 なので結局は感性、直感、あるいはそれに類されるものがすごく大事になってくる。特にデザインなんかは、理屈だけでは説明しにくい。なぜ良いと思えるのか、なぜ感動するのか。論理的思考を得るのは、例えばこうやって自分の考えを書き出すだけでも論理的思考能力を鍛える一助になる。机上でできる。ただし、感性は違う。実際に、物理的に新しい体験をして、その積み重ねで感性が養われていく。もちろん小説を読むことでも良い。その場合、読むだけでなく、場面場面をじっくり想像し、擬似的に体験するといい。感性が養われていくと、理屈を超えた直感、―第六感とかセンスとかいわれるものだと思うが、そういう力が身につく。直感にもとづいて意志決定し、直感が正しいかどうか、あとから論理が追いつくのである。まるで脊髄反射的に意志決定できるようになるし、その分悩むこともなくなる。意志決定が気持ちよくなってくる。 なので、勉強やロジックも考えることも重要ではあるが、PCとにらめっこしているだけでなく、外に出てなにかするという行為も、一見無駄に見えても、あとから生きてくるものだと思う。私の場合は、出不精なので旅などはあまりいかないが...思考の旅にでたり、身の回りのものにこだわったり、全然至らないが、自分なりの感性をなるべく磨くようにしている。そして感性を磨くのは楽しい。時間やお金が無駄だから、といってなにもしないのは、もったいないと思う。