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Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

感性を大事にする

私はどちらかというと論理的思考を重んじる。時折屁理屈をこねてしまうこともある。だが、理屈で説明できないこともこの世には存在する。例えばどうやれば成功するか、だ。理屈や事実というのは、あくまで過去でしかない。過去の経験則に基づいて導き出すものだ。だから「こうやったから成功した」は言えるが、「こうやれば絶対に成功する」は言えない。不思議だ。もちろん経験則を利用することは非常に有効だ。過去から未来を予測し、ある程度先のことならどうなっているか見通せる。だが、その見通しでさえ、想像であり本当にどうなるかはその時点に到達しないとわからない。確実性は低いので、あくまで論理はあくまで補助的な役割である、と割り切ったほうがいい。 なので結局は感性、直感、あるいはそれに類されるものがすごく大事になってくる。特にデザインなんかは、理屈だけでは説明しにくい。なぜ良いと思えるのか、なぜ感動するのか。論理的思考を得るのは、例えばこうやって自分の考えを書き出すだけでも論理的思考能力を鍛える一助になる。机上でできる。ただし、感性は違う。実際に、物理的に新しい体験をして、その積み重ねで感性が養われていく。もちろん小説を読むことでも良い。その場合、読むだけでなく、場面場面をじっくり想像し、擬似的に体験するといい。感性が養われていくと、理屈を超えた直感、―第六感とかセンスとかいわれるものだと思うが、そういう力が身につく。直感にもとづいて意志決定し、直感が正しいかどうか、あとから論理が追いつくのである。まるで脊髄反射的に意志決定できるようになるし、その分悩むこともなくなる。意志決定が気持ちよくなってくる。 なので、勉強やロジックも考えることも重要ではあるが、PCとにらめっこしているだけでなく、外に出てなにかするという行為も、一見無駄に見えても、あとから生きてくるものだと思う。私の場合は、出不精なので旅などはあまりいかないが...思考の旅にでたり、身の回りのものにこだわったり、全然至らないが、自分なりの感性をなるべく磨くようにしている。そして感性を磨くのは楽しい。時間やお金が無駄だから、といってなにもしないのは、もったいないと思う。

他人のため、という動機はあり得ない

他人に対してなにかをする場面は多々ある。例えば友人が入院したのでお見舞いにいく、とか、祝い事があればご祝儀を包んだりする。これは、その友人のためにやっている行為に見えて、実は直接的にはそうではない。「自分がそうしたいからそうする」のである。何か祝ってあげたい、という気持ちもあくまで自分の中の感情だ。つまり、他人のためになにかをする、という行為は、実は自分がやりたいからという自分の意志にもとづいており、自分のための行為である。それが結果的に他人のためになっているだけだ。そんなことはない、という意見もあるかもしれないが、本当に聖人君子であるのであれば自分にまったくお金がなくとも、友達のために借金をしてでも施しができるはずである。結局は無意識的に、自分自身への利益を鑑みているのだ。

思ったよりも人はドライかもしれないが、悪いことではない。むしろ自身と他人の両者にとって良いことなら、望ましいことだろう。だが、悪いパターンも存在する。他人を自分の言い訳に使う行為である。「家族、子供がいるから、仕事を辞めることなんてできない」といって、現状に不満のある仕事をし続けようとする人がいる。一見、家族のために立派である、と評価されそうなものだが、実は違う。転職する、というのは労力、パワーが要るものであり、必要がなければしたくないものだ。勇気もいる。だから家族や子供を言い訳の材料につかっているだけなのである。本当に家族や子供のために働く、ということは自分自身も仕事で満たされるべきだ。自分に余裕がないのに家族を幸せにすることは難しい。本当に家族のためにやるなら、必死になってスキルを磨いたり転職先を探すべきであろう。他にも「他人のため」の皮をかぶった言い訳はかなりある。子供がいるから離婚できない、友達が傷つくから言いたいことが言えない、同僚が働いているのに風邪なんかで休めない、etcetc...。自分自身を正当化するために他人をダシにする行為は、どちらのためにもならない。
しかし、最たる問題というのは、この自己正当化を無意識にしてしまっている、ということだ。それどころか他人のため、と思いこんでいるのでなおのこと質が悪い。相手のためだけ、という行為は存在しない、ということを念頭に置き、しっかり、「自分のためになる行為はなにか、そしてその行為が他人のために作用するにはどうしたらいいか」ということを意識する必要がある。あくまで、自分がやりたい行動の範囲で周囲を幸せにするのである。自分自身をも幸せにできないのに、周りのためになにかできるなんて、おこがましいにも程が有るのではないか。

原因は結構遠いところにある

趣味でテニスをしているが、うまくボールが打てない時がある。そういうときはまずラケットの振り方を怪しむが、まぁちゃんと打ててないのだから当然振り方自体はよくない。だが、だからといってどう振り方を直すかというのを考えてもずっと改善できない。なぜなら、ラケットを振ってボールを打つという動作は、腕だけでなく実際は体全体を使っているからだ。つまり、腕の振りだけを見直してもだめで、身体の動作の流れ全体を考えなければいけないのである。私の場合、ボールが打てないときは、脚を曲げてないのが大抵の原因だ。しっかり重心を落とさないと身体の芯がぶれラケットを思うように振れないのである。もっというとポジショニングが悪い場合もある。ボールを打つ位置に入るのが遅いので、打つ準備が間に合わないのだ。更に、睡眠不足や体調不良というのも原因になりうる。体調が万全じゃないからポジショニングが間に合わない場合も考えられるのだ。
このように、「ラケットを振れてない」というのは直接的に腕の振り方の問題ではなく、その何歩も前の所作が影響しており、ラケットをうまく振ろうと腕の動作だけに着目していてはいつまでたっても改善しない。足腰を鍛えることで改善される、という直感的でない方法が解決策になりうるのだ。
この現象はスポーツだけに限らない。生活や仕事でうまくいかないときも、実はもっと遠く、意外なところに原因はある。例えば仕事が捗らない原因は、その人の能力ではなく、家庭がうまくいってなくて集中力が欠如してしまっている、ということもあり得るだろう。うまくいかなく必死になっているときほどそういうことは見抜けにくい。まずは自分自身を俯瞰的にみる余裕が必要になってくるので、しっかり身体を休めたり、遊んでリフレッシュしてうまくいかないことから一旦距離を置くことで、思わぬタイミングで気づきを得られることもあるだろう。

辛く生きない

日本での自殺率は諸外国と比べてもトップクラスで、1日あたり100人ほどが自殺していることになるらしい。自殺するほどでなくとも、学校つらい、会社つらい、そして、家庭もつらい、という話をよく見かける。

そのつらさはどこからくるか

なにがつらいかというと、状況に納得していなかったり、納得して行動できていなかったり、自分の意思とは反することを強いられていることだと思う。やりたくないことをさせられたり、なりたくない状況におかされたりしているはずだ。例えば学校ではいじめが挙げられる。いじめは人権を踏みにじるような行為なのでいやなのはもちろんそうだろう。問題は、長い間その状況に居続けなければいけないということだ。学校でいじめられたら卒業までの数年間、苦しみながら通い続けなければいけない。 社会にでれば、色んな人間関係に悩まされることもあるだろう。上司や同僚、取引先やクライアント、数多くの人が関わるのが当然であるため、その中でどうしても馬の合わない人がでてきたり、行きたくもない飲み会に行ったり、接待したり、「やりたくないことをやる」という状況はものすごくツラさがある。

苦痛からにげない、楽しもうとしないメンタリティ

不思議なのは、その状況を脱することをしないどころか、思いつきもしない点だ。学校でいじめられて、解決できそうもなければ学校はいかなくてもよい。転校するのも手だし、登校拒否をしたっていい。会社だってつらいんだったら辞めていい。その発想がまずない。こんなことを言うと、そういうものだから、とか生活が成り立たなくなるから、とか言われるが、極端な話、鬱になって死ぬよりは遥かにマシだろう。人生を豊かにするために学校いったり働いたりしているのに、それに殺されては元も子もない。

現状維持が実は一番楽

私も何も考えなしに学校辞めたり、退職するべきではないと思う。学校はいかなくても通信制度な学校や、大検という制度もあるし、学歴に頼らずスキルを磨くのも手だ。バイトから生え抜きで正社員になるのもいい。仕事をやめるときも同様で、本気で職を探せば絶対に何かしら見つかる。見つからないのであればそれは高望みしているのであって、低い待遇に甘んじなければいけないだろう。だが、納得できないなら、その間にスキルを磨くなど自己研鑽してキャリアアップを考えればいいのだ。 だが、なぜ皆そうしないのかといえば、上記のような行動は「大変そう」に見えるからなのである。現状に納得しないが、とりあえず愚痴をこぼしたり、他人や環境のせいにしたり、最も悪い考えが「そういうものだから」といって思考停止することである。いじめられても、「学校は毎日行くものだ」という謎の刷り込み&思考停止に苛まれて、自殺した人がどれだけいるのだろうか。しかし、人は兎角、思考停止をしたがるのである。生物は無駄なパワーを使わないために、本能的にそうなっているのだと思うが、思考することを面倒がって今の苦痛を受け入れてしまうことが多い。少し先をみれば状況を打破したほうが絶対にいいのだが、刹那的な考えをしてしまえば現状維持が楽だと脳みそが判断してしまうのだ。

どうにかなるさ

無責任な言い方かもしれないが、最終的にはどうにかなる。ただし、それ相応の熟慮、行動が必須だ。世界には何百カ国の国があり、何十億もの人がいる。その中でどこでも生きていけない、ということはありえないのだ。居場所は見つけようと思えばどこにでもある。ただし、視野が狭いと学校や職場が全てだと勘違いしてしまうのだ。勇気をだすとかそういう以前の問題で、事実として世界は広い。そして、生き方も多様でいい。仕事するのが本当に嫌いなら、山にこもって自給自足の生活でもいいと思う(日本においては労働の義務があるのが難点だが、時代錯誤であると思う)。そしてそれが嫌なら、もちろんある程度稼ぐようにするべきだ。ただし、つらくては意味がない。鬱になりそうなほど、強烈に「つらいな」と思う行動はその人にとって明らかに間違った行動だ。常識や世間にとらわれているだけにすぎない。他人や常識がどうあれ、自分がいかに、納得して気持ちよく生きるにはどうしたらいいか、日頃から自分のことを知る必要がある。難しい話は抜きにしても、どうしたって死ぬよりは遥かにマシだ。

正解はないという世界

こうやれば儲かるだとか、人生を成功させるにはこうしろだとか、ハウツー本や、悪いものだと詐欺商材なものもある。だが、本当にソレで儲かるのならば苦労はしない。"xxすれば成功する"といった類の煽り文句に騙されてはいけない。必要条件は備わっていても、十分条件なのかどうかはその人の置かれたシチュエーションによるからだ。めまぐるしいほどに世界の情勢は変わるし、個人個人で、能力によってでできることも違ってくる。その中でこれをやっていれば大丈夫、という100%な正解はありえないのだ。
だから、ビジネス書だとかそういうのは読むだけでは全く意味をなさない。書いてあるとおりにしてうまくいくならみんなうまくいってる。当然だが。大事なのは結局、自分自身で正解を導き出すことだ。更に言うと、「正解はない」ということを意識することだ。今日うまくいくことが、数年後うまくいくとは限らない。例えば、国内の携帯電話産業は、大手キャリア主導でガラパゴス化して成功していたのが突然、iPhoneやその他海外製スマートフォンに駆逐され、一気に利益が減っていった。数年前通用した手段が、今はうまくいかないのだ。過去の成功体験をもとに、「正解はこれだ」と脳裏に焼き付けてしまうとその他の考えが浮かばず、状況に合わせた柔軟な発送ができなくなって失敗してしまう。生活においても、我々が備えている常識というのは所詮、長くても数十年くらいでできあがったものだ。今から100年前は大正5年だ。歴史に詳しい人間を除き、その年代の生活習慣を想像できる人間が果たしてどれだけいるか。 このように、「このときxxしたのは正解だった」というのは確かに言えるが、常にそれが正解ではない。過去の誰かの足跡は参考に足るが、今も正解である保証はどこにもないのだ。大概の人は過去の文献や出来事を必死に探し回り、パターン的に成功を導き出そうとするが、考える事をやめてしまった時点で成功からは遠のく。正解がない、というのは幾ばくかの不安を抱えてしまうことになるが、過去の成功はあくまで過去であり、白黒つけることのできる”正解”というのは存在しないので状況に合わせて柔軟に判断することが大切だ。

考える時間の確保と、考えるという行為

最近、仕事が忙しいことにかまけて、自分のことをちゃんと考える時間が確保できていない。しかし、私もそうだったが、考えてみると意外に人は自分のことを考えることはなかなかしない。例えば、1時間や30分でも、これからどう生きていこうとか、自分はどうありたいのか、あるいは自分は何が好きで何が嫌いか、なんでもいいが自分のことについて"だけ"を考えることはしないものだ。自分の人生を生きているのに自分のことについて考えない、というのは不思議なものである。企業でいえば株主総会もしないし決算もしないようなものだろうか。
とはいえ、自分のことを考える、というのは慣れてない限りはあまり簡単なことではない。多分各々、現状は理想的とは言い難い人たちがだいたいだろうし、過去を振り返って自分の過ちや失敗を直視したくない。もっと難しいのは将来のことを考えるという行為だ。数年後先の未来なんて、社会的環境や周囲の環境がどうなってるかわからないし、的を絞って行動するというのは一種の賭け事のように思える。どう行動していくか、意志決定するのはパワーや勢いが必要だし、決めてしてしまうと行動に移さないといけないので無意識にそれを避けがちだ。ダイエットしたい、でもどうやろう?明日考えよう、的な。

とにかく、自分のことを考えるクセと、それをするための時間の確保は優先されるべきだ。現実から目を背けていては、いつまでたっても理想の自分、理想の人生には成り得ない。たった一度の人生、楽しく後悔なく過ごせるようにしたいものである。

批判的意見を批判するのではなく、自分が自由になる努力を

日本人の気質は、褒めたり讃えたりするよりも、批判や非難をする、つまりポジティブな意見よりもネガティブな意見が数多く見られる、と揶揄されるが、批判的な姿勢自体は間違っていることでも悪いことでもない。だが、そんな態度は良くない、という風潮もある。

誰にでも自由に意見をいう権利がある

確かに、批判的な意見は耳が痛くなるものである。しかし、だからといってそれを咎めることはできない。憲法にも明記されているように、誰しも「表現の自由」を持っているからだ。

許容の押しつけという矛盾

結局、批判的な態度を取るな、というのは、自分が許容されたいからに他ならない。そういう文化にしてしまえば自分も楽であるから、他人に許容を求める。その考え方自体は間違っちゃいないが、やもすれば、許容することを強制しようとしてしまいがちだ。「批判的な意見ばかりをぶつけるな、少しは認めろ」といった類の主張は、自己都合的であり、自由な意見を主張することを「批判している」。

あくまで受け止める側の問題

さて、本来は言うまでもないのだが、意見を言う側の自由もあれば、意見を聞き入れない自由もある。これも憲法に記されているが、思想及び良心の自由(これには表現の自由も含まれるが)というのがある。つまり他人からどう言われようが、自分の思想と良心に従ってもいい、ということは国家的にも保障されているのである。

精神的に強くなる必要はない

他人の意見を気にせず、我が道を行く姿勢というのは、一般的にみれば「精神的に強い人」に類いされるだろう。だが、強い弱いの話では実はないのだ。あくまで視点の違い。日本人は協調性を重んじるあまり、他人の意見に敏感になりすぎているだけなのだ。前述の通り、批判する人も受ける側も、それぞれに自由があり、それぞれ尊い。他人を尊敬するからこそ、その人の主張を抑えるようなことはせず、受け入れ、それに従うかどうかを自分で判断するのだ。雨を止めるようなことはしないように、他人の意見を抑えるべきではない。そして、自分の内から湧き出てくる気持ちの洪水も、自分を含め誰にもせき止められるべきではない。

他人がどう言おうが自分の道を進むべき

我々が批判的な意見を恐れず、精神的に自由になるためによりベターな主張としては、意見する側に「批判するな」という押し付けよりも、すべての人に対して「どういう意見があろうとも、自分に従おう」ということだろう。批判するな、という意見自体、批判に批判しているのであって元も子もない。他の人を抑えつけるのではなく、自分自身を開放し自由になろうとする精神的努力が大切だ。