Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

売上至上主義はうまくいかない

サラリーマン時代から感じていたが、自営で仕事していると、売上至上主義な考えはやはり間違っていると気付かされる。厳密にいうと間違いではないのだが、少なくとも気持ちよく仕事ができない。

売れば良いのか

最近話題のPCデポあたりが売上至上主義が台頭している会社のひとつだろう。社員に無理にノルマを課し、明らかに顧客の利益にならないサービスや商品を押し売りに近いことをして、売上をあげようとする。確かに一時的に売りは立つが、社員も客も得しないし、今回のように炎上してしまえば経営者も損をする、誰も得しない構図になってしまう。
私の前職でも、クラウドサーバーを提案するべきなのに売上のために自社のサーバーを客に提供するというような場面が何度か目にした。当時は明らかにそれは間違いだと思っていたのだが、案の定、途中からクラウドサーバーに切り替えざるを得ない状況になってしまったらしい。切り替えるコストや手間、信頼の失墜を考えれば、目先の利益は捨てるべきだったと思う。
このことからも分かるように、売ればいいというわけでは決して無い。

正当な対価としての報酬

そもそも、とりあえず売上をあげようという考えは、客のことをぞんざいに扱っていると言わざるを得ない。なぜなら、本来報酬(売上)は客に提供する価値と等価であるべきだと思うからだ。つまり、100万円を売り上げるとすれば、その分、客に価値を提供するということ。例えばITでいえばシステム開発をして、社内効率化を提供したり、Webサイトを作って流入を増やすことを提供したり、などだ。つまり、作ればいい、というわけでもないのだ。役に立てるものを作らないと意味が無い。
価値を提供し、正当な対価を得ることがビジネスの本質の一つといえるのかもしれない。

売上をあげるのはそんなに簡単じゃない

提供する価値=売上という事を忘れてしまうと、PCデポのような炎上が発生する。客側が、提供された価値があまりにも低すぎることに気づいてしまったからだ。わかりやすくいうと、5000万円で購入したマンションで基礎工事に不備があることに気づけば、客側も一斉にディベロッパーに対してクレームをいれ保障を求める。当然だ。客を騙せるうちはまだいいが、いずれ見抜けられるし、一度信用を失えば、取り返すのは難しい。
だから、商売をするにあたっては、「売上を上げるということは、それに見合った価値を提供しなければいけない」ということを忘れてはいけない。売上を上げるということは提供できる価値を増やしていく必要がある。価値を増やすというのは簡単なことではない。アイディアがなければ地道さが必要だ。売上>提供する価値、という非等価式なぼったくりなら一時的にはできるが、客が気づいたら終わり。長らくしっかり稼ぎながらビジネスしていくには、自分たちが提供していく価値をどんどん増やしていくことを意識しなければならない。

売上=提供する価値 はwinwinの関係

winwinという言葉は好かないが、売上に見合った価値を提供できればみんな幸せになる。売上>提供する価値 で働くのは、実は働く側にも相当な負担だ。客のためにならないのに、と分かっていながらも不要なものや見合ってないものを売りつける行為は、良心が痛む。客側に良い物を届けて、役に立てることができて、正当な報酬をもらう、というのが一番気持ちいい仕事の仕方だと思う。明日への活力にもなる。そういうことができていない会社はいくつも見かけるが、そこにいるのは損だと思う。

一日一食生活

ライフログをたどっていると、生活関連(掃除や洗濯、買い物、食事)などで結構時間を費やしてしまっているのがわかる。効果的にそういった無駄時間の削減を試みるにあたって、まずは食事に目をつけてみた。食事は普通、朝昼夜の3回で、それぞれ食べる時間がかかってしまうし、自炊するならもっと時間がかかる。材料を仕入れるための買い物の時間も折り込むとすごいオーバーヘッドになるに違いない。

なので、食事は最低限にしてみることにした。一日の食事は昼1回のみ。時間の削減のためでもあるが、ダイエットのためでもある。
まぁ、最初はもちろんつらいが、しばらく続けてみると慣れてくるものである。間食はときどきするが、それでも朝ごはんや夕ごはんをみても特段食べたいという気持ちは起きない。一日一食にしてよかったのは、時間の削減とダイエットに役立っただけでなく、集中力が持続しやすい、などの副作用も多少ある。満腹になると睡魔がおそってくるものだが、それも起きにくいし、消化コスト(消化するにもエネルギーが要るらしい)もあんまりかからないので疲れにくい気がする。

栄養失調などおきないかという不安もあるが、特にこれといった体調不良も起きず。こういうのは結構人次第なのだろう。私の場合、痩せにくい体質(つまり低燃費?)なのでうまくいってるだけかもしれない。とにかく、無駄な時間も体重も減らすことができそうで満足している。

どうあがいても前には進んでいる

多分、この感情を持つのは私だけに限ったことではないのだが、時折、強烈な劣等感に襲われることがある。色々手をつくしているのに、うまくいかない、結果がでない時。そして、周囲の人間が自分より秀でてると感じるとき(他人と比較するのはよくないと知りながらも)。 自分の成長に焦っている。どこかで、自分が優秀だと信じているので、焦りが出てくる。実際は全然大したことないのにも関わらず、必要以上の自己肯定感を求めてしまう。

そういう凹んだ状態、自己嫌悪な状態になると、自分が続けていることが虚しくなる。自分がやってることや、仕事は向いてないんじゃないかと。まるで前に進んでいないと錯覚してしまう。だが実際はそうじゃない。どう考えても前に進んでいる。何もしていないのなら衰退する一方だが、なにか考えて行動しているなら程度はともかく確実に、前に進んでいる。その進み幅を他人と比べても無意味だ。歩幅や走り幅跳びでオリンピック選手に勝てるわけもない。他人と比べても頂点でない限りは、上には上がいて、どれだけやってもつらいだけだ。だから、ひとまず自分が進んでいることを実感するよう努める。実際に進んでいることと、それを認知することが、前に進んでいる、という実感だ。いろいろうまくいかなくて辛くなってきたら、今まで自分がかけた時間や行動は決して自分を裏切らない。必ず前に進んでいる。だから安心していい。

継続は時間確保と仕組みづくりに限る

何か目標設定をして、それを達成するには、「継続」は避けては通れない。だが「やるぞ」という意思だけでは、普通三日坊主で終わってしまう。継続をし続けるには、下記の二点を抑えるだけでよい。

  • 時間確保
  • 仕組みづくり

時間を確保する

兎にも角にも、時間がなければなにもできない。なのでどうやって時間を確保するか考える。例えば、残業しないようにするとか、スキマ時間を有効活用するとか、朝早起きするとか、色々ある。英語を身につけたい、という目標があるとして、毎日1〜2hの時間が必要ならば、どうにかしてその時間を見つける。 ちなみに、これはそこまで難しいことではない。見なおせば、日々の生活に必要な時間はなんとか圧縮できるものだ。掃除はルンバにさせる、とか食事はアウトソースする、とか発想の転換が必要になるかもしれないが。

仕組みを作る

意志の力は相当に弱い。やろう、と思い立った時が最大で、そのあとはモチベーションは下がる一方だ。すぐにやらない理由を探しだす。せっかく時間を作り出しても、怠けたら意味が無い。やろうと思い立った時点でいかにやりつづける仕組みを作れるかが大事だ。例えば、ルールを決めること。出社前の朝7:00-8:00は勉強時間とする、とか。できなかった場合のペナルティを課すのもよい。すごく簡単なことでいうと、使う勉強道具は常に机の上にだしていて、いつでも勉強できるようにする、など。

特に仕組みづくりは生活習慣や性格によっても左右されるため、自分なりに検討してアレンジしてみることが大切だ。そういった類の書籍もいくつかあるので、参考にしてみるといいと思う。仕組み化してしまえば継続は簡単だ。

日本は本当に一度でも失敗したら人生終わりなのか

日本は失敗に不寛容だという風潮がある。ただの言葉の綾だとは思うが、ネットでは「日本では一度でも失敗したら終わり」ということも書かれていたりする。例えば新卒の就職活動がそうか。新卒での就職を失敗すると、もう輝かしいキャリアを歩むことはできない、という社会。まぁこういうことは分からなくもない。
だが、就職活動だけでなく、学生の受験や、社会人になっても色んなタイミングで大きな失敗をすることはあり得る。生きていく中で少しも失敗しない、というのはあり得ないだろう。

失敗しても問題ない

ずっと失敗しないなんて到底あり得ない。むしろ試さないとわからないことだらけだし、失敗したら「ああ、この方法はだめだったんだな」とまた別の方法で試すばかりだ。事実、私は受験も就職活動も失敗したが、そこから自分なりに勉強したり試行錯誤して、食うに困らない程度には収入はある。就職活動で失敗して、会社に入れなかったら、別の方法を模索すればいい。(失敗したからもうダメだ、と思考停止していると本当にダメだけど。)

失敗に不寛容な風潮なのが問題ではない

事実として、日本の国民性として、批判的な態度をとってしまうことが多いと思う。成功よりも、失敗に目をつけ、批判する文化。それを指し示すデータは存じないが、芸能人の不倫問題をずっと批判していたりするので、ある程度事実だと思う。基本的にマイナス部分が気になるので、それに対して批判する。肯定よりも批判のほうが多いので、不寛容な国民性と感じるのだと思う。それは間違っていないが、実際はそこが問題ではない。批判されたからといって「皆さんの言うとおりです。私は負け犬です。」と勝手に社会的敗者だと解釈してしまうことこそが問題ではなかろうか。
批判されても「なんと言われようとやりたいようにやる」と我道をいけばいいだけの話。不倫して批判されようが、個人的な問題であればその人の問題であって、批判されようが関係ない。批判されて、その場に居づらいのであれば、場所を変えればいい。人一人からすれば、無限に近いくらい地球は広い。

一番やってはいけない失敗はなにか

失敗に不寛容な社会に必要以上におびえてしまって、何が何でも失敗しないようにしようにするのが一番の失敗である。失敗と成功は紙一重であり、起点はいずれも「挑戦」に他ならない。失敗を避けるということは、挑戦を避けるということであり、そういう人はいつまでたっても成功しないばかりか、面白みのない人生を過ごすことになってしまう。最悪なのが、どこからも必要とされなくなってしまうことだ。そうならないために、失敗しないようにしてきたはずなのに、だ。

結局は自分自身の問題

何かに失敗して、仕事がクビになったり、借金を背負ったりすることはあると思う。しかし、そこから立ち直れる方法はいくらでもある。社会が不寛容だろうがなんだろうが、実際どうにでもなるので、失敗しないに越したことはないのだが、失敗しても絶望する必要はない。

自分に一貫性がなくてもいい。キャラを捨てる

人間は一貫性がないと気持ち悪く感じてしまうものである。例えば、昨日と今日で言ってることがまるで違う人をイヤに思ってしまうだろう。多分、脳の仕組み的に予想と結果が違うと不快感を覚える機能があるのだろう。 なので、自分についても一貫性を保ちたがるものだ。顕著なのは周りからの評価に従おうとすることだろう。例えば、周りから秀才だと思われているのであれば日頃から馬鹿な発言はしなくなってしまうし、秀才であり続けようとする。実はもっとふざけた事言いたいのに、と思っても翌日からいきなりキャラを変えることができない。 だが、別に一貫性なんてなくていい。世の中が不変なら常に同じ状態でいたほうがいいかもしれないが、そういうわけにはもちろんいかないので、状況に応じて変わっていければよい。むしろ一貫的でないほうが、自ら変化を起こしやすいだろう。世の中には一貫した出来事はたくさんあるが、それらはあくまで物理面や過去。物体は高いところから低いところに落ちる、という法則や、AがBをした、という事実的なことだ。精神的なことや人の思考は非常に移ろいやすい。だから、状況に応じて自分の”キャラ”は変えていいし、周りの評価を気にしても仕方がない。 第一段階として、付き合う人に応じてキャラを変えてみるものいいかもしれない(すでにそうしている人も多い)。会社でのキャラと、趣味の場でのキャラを変えたりなどだ。なんかいつもと違って気持ち悪いな、と思うかもしれないけど後ろめたく思わなくても良い。自分を殺してしまうよりは、積極的にありのままの自分を出していこう。

時間がない、はただの言い訳である

忙しいと時間がないと思ってしまうけど、意外に時間はあると思う。例えば、まったくダラダラしていないかといえばそうでもない。ちょっときばらし、なんて言いながら横になったりどこかでかけたりもする。測ってみるとわかるけど、そういうのは思っているよりも時間を食ってしまっているし、1回あたりはわずかな時間だとしても、ちりも積もればなんとやらである。 私は五分ごとにライフログをつけているのだけど、一週間ごとに振り返って数値を見ているのだけど、めちゃくちゃ休憩しているしダラダラしていて、仕事している時間も想定より短すぎる。勉強もあまり時間をかけきれていない。あと、突出しているのが生活カテゴリ(掃除や食事など)で、無駄な時間の使い方をしていると実感する。 世の中にはもっと忙しい人もいるだろう。例えば一国の首相なんかは本当に忙しいんじゃないだろうか。テニスの錦織圭選手も銅メダルとった3日後にはツアー大会と、かなり忙しいと思う。で、私は忙しいといいながら、彼らより忙しいのかというと、絶対そうではないはずだ。だから、まだまだ時間は圧縮できるということ。不要なものはなるべくそぎ落として時間をどんどん見つけていく。あとは、時間があってもだらけてしまわないこと。これについてはモチベーションに頼らない、仕組みを作ることが課題になる。兎に角、時間がない、というのはただの言い訳なのである。