Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

時代に名を残す必要はない。「普通」に生きる。

時代に名を残したい、あるいはそれに準ずる「世間に埋もれたくない」という気持ちは、所詮他人からの承認を求めているだけで、危うい考え方である。何を成し遂げるかではなくて、結局は他人からどうみられたいかという人目を気にする低次元の承認欲求だ。名を残したい、特別なことをしたい、とおもって生きている人に限ってたいてい何も成し得ない。

だからあえてそういう特別なことは気にしなくても良い。かのゲイツジョブズは有名になりたい一心でMicrosoftAppleを創ったわけでは絶対にないはずだ。彼らはそれぞれ自分のやりたいことにのめり込んで入っただけにすぎない。彼らはその熱量がすごくて結果も出したので、歴史に名を残すほどに有名になっただけでそれはただの結果論だ。事業に失敗していれば、もしかすると、「普通」の人生を歩んでいたかもしれない。だからといって彼らの素晴らしさは否定されるわけではない。時の運というものもある。「普通」か「特別」かというのはあくまで他人から見た相対的なものなので、気にすることはない。歴史に名を残せる人なんで一握り。だから変な虚栄心は捨て、まずは「普通」に生きる覚悟を持つべきだ。(普通、という言葉は嫌いだが、ここでの普通は特別の対義語として。)

自信や不安は幻想である

基本的に、”自信”はあるほうがいい。大勢の前でのプレゼンや、大事な取引先との商談など、自信があれば態度にそれが表れ、堂々とできるし、相手側もその余裕を感じて安心するだろう。逆に、ここ一番というときに自信がない場合は、一種の不安状態に陥るだろう。ちゃんと自分は出来るのか、と自信を失った状態だと余裕もなくなりおどおどした態度にもなる。ひどい場合だと、いつもはきちんと出来ていることもできなくなり、更に自信をなくすという負のループにも陥る。

だが、そういう自信や、自信がないことによる不安は幻想にしか過ぎない。人は必死になれば、自信があるとかないとかは関係なくなる。考える余地がある分、つまり余裕がある分だけそういうことに悩んだりするものなのだ。それに、自信があろうがなかろうが、その時できるベストをつくすべきなのは変わらない。初めてする行為より、何回かやったことがある行為がうまくいくのは、それは自信があるからということではなくて、経験があるからうまくいくだけだ。 自信がなくとも、取引先で話をするときは堂々としたほうが絶対にいいし、知らないことは知らないからあとで調べて答えるなどの回避策も駆使したらよい。自信がないことをいいわけに、ベストを尽くさないのは、失敗した自分を見せたくないという、過剰な自意識だ。そんなのはどうでもいいから、今出来うることを最大のパフォーマンスで愚直にやるべきだろう。

私自身もなかなか踏み切れないことがあるので、自分に言い聞かせるために書いた。

低次元の承認で満足した人の成れの果て

先日、下記の記事を書いたが、今回は「低次元の承認で満足し続けるとどうなるか」を書く。

murabito-rx.hatenablog.com

低次元の承認は麻薬

低次元の承認は、我々は小さいころから与え続けられている。子供の頃は些細な事でも親や祖父祖母からは褒められるものだし、もちろん、宿題をきちんと終わらせたり、テストで良い点をとっても褒められる。褒められるというのは実に心地が良い。生きている意味を感じるし、身近なコミュニティにおける自分の役割やアイデンティティだって感じることができる。なにより、ただただ心地がいい、気持ちがいい。 だがそれは、裏を返せば褒める側に生き方を誘導・制限されているだけに他ならない。「叱るのはだめだ、褒めて伸ばす」というような教育は本来教育ですらない。その教育方法は、褒めるという麻薬によって、褒める側が描く理想の生き方を強いているだけなのだ。(人は、自分の行動が正しいかどうか、自分で判断できるようにならなければいけない、それが教育だ)

いわゆる親や周囲が用意したレールに載せられるのは、低次元の承認(麻薬)によってコントロールされているからなのだ。

認められなくなったら終わり

だが、その用意されたレールの上を歩こうとも、人生は必ずうまくいくわけではない。例えば、受験戦争や就職活動での失敗だ。言われたとおりこなしてきたはずなのに、受験に失敗して浪人してしまう。それでもうまくいかない。しびれを切らした親は叱責や罵声を浴びせてくる。子供は良い子にみられたくて、言われたとおりにしただけなのに、期待したこととは裏腹に、親から承認されないしプライドも傷つく。今まで他人による評価のみで正悪を判断してきたので、自己評価という術も知らず、自分は傷ついたまま。 その結果、現実逃避のために、非行や暴力、最悪の場合自殺という選択肢を選ぶ。親・周囲・他人から認められない=自分の存在価値がない、と判断し、どうにかして構って欲しいと考えた結果、そういう行動に出てしまうのである。そこから挫折を経て、社会に出れる人もいれば、立ち直れず引きこもりやニートになってしまう人もいる。

周囲に褒められ続けるとどうなるか

逆に、幸運にも(私は不幸だと思うが)、他人から認められ続けている人もいる。そういう人はかなり厄介だ。まず、そういう人間は縦社会の人間だ。自分が如何に素晴らしいか、というのを認められて欲しいと常に思っているため、基本的に誰彼構わず「自分が上だ」というマウンティングをしてくる。過去の自慢話、武勇伝をしょっちゅうしてくる輩がいると思うが、動機は同じだ。どうしても実力で敵わない相手の場合は、媚を売り、できるやつだと認めてもらおうと努める。上にはヘコヘコ、下には厳しいという若手からすると嫌な手合だ。 もちろん、自分で自分の評価はできず、他人からの評価ばかり気にするので、例えば、言うことが二転三転する。見下している人の意見については駄目だしをするのに、著名な人や有名な人からの意見は平気で鵜呑みにする。 最終的に、彼らがどうなるかというと、結局他人から尊敬を得ようと四苦八苦するのは変わらないのだが、どんどん規模が大きくなってくる。実は、他人から認められ続けるというのはある意味限界があるのだ。幼少期、自分で歯を磨いたり、着替えたりできればそれは褒められたものだが、大人だと身の回りのことは出来て当たり前だろう。つまり、歳をとるごとに周囲の期待のハードルの高さは比例し、それに応えようとするとどんどん大掛かりになっていくのだ。だが、いずれ、他人の期待を裏切ってしまう時がくる。褒められ続けた人間は、実力が伴わないからだ。彼らは何を成し遂げたかよりも、他人にどう見られるかのみを気にしてるので、表面的なことしかできない。だから実力がない。なのにもかかわらず、持ち上げられて大掛かりなことをしようとする。 例えば政治活動や人材教育など、社会的大義があるものをやろうとする。無論、まじめに自己実現としてやっている人もいるが、そのなかの「胡散臭い人」は周りからの尊敬を得るためだけにやっているのである。何が言いたいかというと、そういう人たちは実力もない上に、見た目しか気にしていないため、ろくなことにならない、ということだ。政治活動や人材育成にしろ、人を大いに巻き込む。そこで他者からの注目をあつめるための利己的なことばかりをしていては、そのコミュニティに所属してしまった人は大損である。下手をすると日本全土を巻き込む恐れもある。 そういう"モンスター"を作り出さないためにも、褒めて育てるというエセ教育から脱却していく必要がある。

承認欲求を満たす2つの方法とその違い

承認には2つの種類がある。他人からの承認と自分自身による承認だ。他人からの承認は低次元であり、自分自身による承認は高次元である。マズローは低い承認のレベルにとどまり続けるのは危険だとしているが、承認欲求を満たすにあたり、残念ながらほとんどの人は低次元の承認を求めてしまっている。

自己実現理論 - Wikipedia

なぜ低次元の承認は危険なのか

低次元の承認=他人からの承認とは、上記ページにあるように、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などだ。一見、どこが危険かわかりにくいが、これらは全てコントロールできないことなのだ。つまり、この承認をいくら追い求めても、得られない可能性を孕んでいる。例えば、他者からの尊敬。どれだけ自分が素晴らしい振る舞いをしていても、尊敬されるかどうかは全く予測も制御もできない。道端に落ちている空き缶を拾ったとしても誰も見ていないかもしれないし、見ていてもなんとも思ってないのかもしれないのだ。他人からの承認を求めつづけていても、たまたまうまくいくこともあるだろうが、ずっと満たされつづけることはあり得ない。子供の頃は何しても褒められた(承認された)もんだが大人になっても褒められ続けるわけはない。他人の顔色を気にして生きるのもつらいが、さらにその欲求はなかなか満たされないので、自分の人生に絶望し、多数の尊敬を集めている人と自分を比べてしまい、悶々とした日々を送ることになる。非常に危険だ。

低次元の承認と高次元の承認の違い

一方、高次元の承認は、あくまで自分自身で自分を承認(評価、というとわかりやすい)することだ。低次元の承認と違い、自分の成果・やったことは正しく判定できる。自分なりに素晴らしい振る舞いができたのなら、自分自身でそれを評価できるし、空き缶を拾うとき、誰が見ていようがいまいが関係ない。自分の行動によって、自分や誰かに良い影響を及ぼすことができるかどうかを判定するのだ。これは褒められなくても感謝されなくても、やればやるだけ確実に満たされる方法だ。他人のために人助けをしたあと、その人から例え感謝されなくとも「自分はその人のために良い行動ができた」と自分自身で承認することができるのだ。 低次元の承認と高次元の承認の違いは、自分自身の評価をするかしないかである。誰から何も言われなくとも自分でしっかり自分のことを評価する。よい振る舞いができていたのならそれに満足する。仮に、褒められたとしても、それは直接受け取らず、一度自分自身で判断すること。自分自身がした行動は本当に良い振る舞いだったのかどうか。褒められたことを喜ぶのではなくて、誰かの役に立った事実を喜ぼう。(褒められた・感謝されたからといって、必ずしもその人の役にたったとは限らない、社交辞令や嫌味だってある。)

高次元の承認で欲求を満たすマインドへシフトする

低次元の承認は、他人の顔色を伺わなければならず、自分の人生が他人のためとなってしまう。高次元の承認は他人の評価は関係なく、自分自身の評価なので、納得して自分の行動を決めることができる。それが自分のための人生だ。他人の評価を気にすることは天気を気にすることに等しい。どうなるかわからない、という意味で。高次元の承認によって欲求を満たせてない人は、自分自身をしっかり見つめよう。自分のために、あるいは周囲の人間のためになる行動をしているかどうか。 あなたが落ちているゴミを拾うのは誰かが見ているからか、それとも自分自身のためか。ちょっと考えてみよう。

取引先で出されたお茶は飲むべきか飲まないべきか問題

結論:どうでもいい。 こんなことをわざわざ書くことは本来時間がもったいないのだが、表題の件にかぎらず、どうでもいいことを気にしている人をネットでしばしば見かける。見かける度に、残念な気持ちになるし、だから日本人の生産性は低いのだろうと実感する。こんなことを気にする人は、仕事をなぁなぁでやっている暇人に他ならない。取引先に出向く目的は、商談を成功させるためだったり、製品のブラッシュアップのための会議だったり様々だが、お茶を飲むことでも飲まないことでもない。つまりどうでもいいことなのだ。飲もうが飲むまいが、きっちり会議の目的を達成したらよろしい。余計な、どうでもいいことを気にするということは、取引先にわざわざ出向いている意味を理解していない。そんなことを気にするために行ってるわけではないからだ。喉が乾いていたらがぶ飲みしたらよい。 そういうマナーにうるさい取引先がいたとしても、その取引先はろくでもない。無視していい。こんなことを気にして文句をいっているヒマがあれば、スピード感がある企業は新しいアイディアを2,3個出せるし、いくつもの意志決定を済ませる。 本質的なことを追い求めていたら、どうでもいいことは本当にどうでもいいのだ。どうでもいいはずのことが、気になるのであればその分思考が分散してしまっている。例えば、家が急に大火事になってしまったら、余裕がなければたとえ裸であっても外にでることはできるはずだ。服を着てないから恥ずかしくて外に出れなくて死ぬ人なんて、いるだろうか?余計なことを気にする暇があったらさっさと目的達成してしまえばよい。仮に余裕があったとしても、そういうことを気にしないほうがいい。疲れて仕事に打ち込むリソースも減るからだ。寝ている方がまだ生産的だ。どうでもいいことはどうでもいいのだから、答え自体はどっちでもよくて、気にする事自体が間違いだ。

依存は良い。ただし、依存先を増やそう。

依存関係だらけの世の中

依存はなるべくしたくないものである。依存してしまうと、それなしには生きていけなくなるかもしれないからだ。わかりやすいものでいうとアルコール依存だとか薬物依存だとかフィジカルなものもあれば、ビジネスでいうとある大口顧客からしか仕事をとっていない状況だったり、様々なシーンで依存関係は起こりうる。

だが、何者にも依存しない、というのは全くもって現実的ではない。私はストレスが溜まれば酒を呑んだりゲームをして発散するし、顧客だってリスクヘッジはしているけど、今取引している顧客が離れればもちろん大変だ。

依存はせざるを得ないが、依存先を増やす

だから、依存すること自体は許容するしかないし認めざるをえないことだろう。そのかわり、依存先を増やしてしまえばいい。アルコール依存症の人も、ストレスの発散先がなかったり他にやることがないから飲み過ぎる、ということもあるだろう。依存症、となってからは遅いかもしれないが、その前に、やることが多かったり多趣味なら、飲み過ぎたりはしないだろう。仕事でも、決してひとつに依存してはいけない。一顧客から全ての仕事を受注するのではなく、複数の取引先から受注をもらえるようにすれば、たとえ一社とうまくいかなくなっても、なんとかなるだろう。

ひとつに依存することの危うさ

なるべくひとつに依存することはやめたほうが良い。例えばスキルもなにも磨いておらず、今の会社でしか生き残るしかないような働き方。その会社で働けなくなったら終わり、という状況なのでなんとしてもしがみつこうとする。そこにセクハラ・パワハラモラハラを受けても、問題を起こして目立つといけないので泣き寝入りするしかない。仕事でもうまくいかない。なぜなら、失敗ができないから。なるべく発言しない、意見しない、提案もしない、失敗をしないような仕事運びしかできなくなり、パッとしない社員となってしまい、ゆくゆくは窓際社員にもなりかねない。 男女仲についても同じことがいえる。今まで交際経験がない人は、ちょっと気になる人がでてくると、もうこの人しかいない、という風に考えてしまう。そうするとその人と喋るのも緊張するし、同じ空間にいるだけで一挙一動を気にしてしまう。これでは好きになってもらうのも難しい。その人とお付き合いしたいけど、ダメだったら仕方ない、他に良い人に出会うだろう、くらいの気持ちで平静に接することができれば、いずれ彼氏・彼女も見つかるはずだ。交際経験がなくてもマインド自体は改めることができる。ダメでもともと、というやつである。

いろんな事に依存してのびのびと納得して気持よく過ごそう

このように、ひとつに依存・固執してしまうと、失敗ができなくなるので硬くなり、縮こまってしまうのだ。 逆に、依存先を増やすと「これがなくなってもいいや」と思えるようになり、余裕がでる。その余裕が大事だ。余裕なく生活するのは疲れてしまうし、余裕がないと冷静に物事を考えれなくなる。なるべく依存先をひとつに集中させてしまわないよう、日頃の生活や仕事を改善していくことで、のびのびして楽しい人生を送れるようになるだろう。そして、それこそが自立なのだ。

本当の”顧客目線”

顧客目線云々の話はよくきくし、大事なことだと思うが、通常はうまく顧客目線に立てないと思う。顧客目線とは、顧客の視点にたって、顧客が本当に欲しているものを提案したり、顧客が困らないように配慮したりと、顧客の気持ちになってどうやれば顧客に利益をもたらすかを考える、ということだと思うが、顧客じゃないのに顧客目線、というのも難しい話だ。下手すれば、無理な値下げ対応など、顧客目線どころか顧客都合で色々振り回されることにもなりかねない。

本当に顧客目線にたつには、実際に顧客側にならないといけない。一番理想的なのは本当に顧客の会社に就職してしまうことかもしれない。まぁ、そんなことは実際には無理なので、なにがいいたいかというと、顧客とベンダという風に一線を引くのではなくて、顧客もベンダも関係なく同じチームである、とお互い認識することだ。顧客には、対等な関係であるということを認めてもらうよう心がける。ベンダ側も、下請け根性でなにもかもいいなりになるのではなくて、言うべきことはきちんと言うことを心がける。そんなの無理だという人もいるだろうし、実際、ベンダ側をただの下請けとみなしてぞんざいに扱う顧客もいる。だが、そんな顧客からは仕事を請けなければいい話で、むしろ、同じチームとして働いてくれることを喜ぶ顧客はたくさんいる。利口な顧客ならわかる。実際に同じチームとして率直な意見をきくことができれば、提供しているサービスや作ろうとしているものが良くなるのは間違いない。それに、線を引くベンダというのは無駄に仕事をつくってお金を引っ張ろうとする。そういう駆け引きにも巻き込まれずに済むようになる。

ベンダ側としては顧客からなるべくお金を引っ張りたい気持ちがあるのはわかる。ただ、その結果損をさせてその会社の事業がうまくいかなかったら仕事すらもらえなくなる。結局、顧客側がうまくいかなければ立ちゆかなくなるということを理解しさえすれば、チームの一員として本当の意味で顧客の事業が成功するよう導くべきなのは、当然のことだと言える。一緒に働くからには同じチームとして働く。そうすれば顧客を成功に導きやすいし、それがうまくいけば継続して仕事ももらえる。そしてなにより、働きやすいというのも大きなメリットだ。同じチームということは、別け隔てなく意見を言えるということ。これはいらないよね、あれはやっぱり必要だよねということを都度話し合って納得して仕事できるというのは至極楽しいことだと思う。さらに、顧客の役に立てている実感がもてるようになれば自然とモチベーションも高まる。仕事がツラい、とかいってるひとは一人きりで孤独に働いているのかもしれない。社内社外限らず、一緒にプロジェクトを進めるメンバーとは同じチームとして働ければ、いやでも顧客目線になるし楽しく働けますよ。