Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

忙しすぎるは死のいとこ

惰眠を貪るのは非生産的。ただし(主に仕事で)忙しすぎるのも非生産的である。

忙しいとは、下記の状態を指す。

  • 「やらなければいけないことをたくさんやっている」 = 「忙しい」

文上は似たようなことでも、下記は忙しいとは違う。

  • 「やりたいことをたくさんやっている」 「忙しい」

「やりたいことをたくさんやっている」ということはそれはもはや娯楽であり、遊びであるから当人からすれば努力や我慢というのは発生しない。 目指すべきはその状態である。

忙しすぎることによる弊害

忙しいと、もちろんそれなりに充実感があるが「忙しすぎる」と、プライベートや家族との時間、自分のための時間を消耗してしまうので逆に非生産的ではないだろうかと思っている。 私自身忙しさには波があるが、忙しすぎの直後は本当に非生産的である。

  • まず、やる気がしない(燃え尽き症候群
  • いざ時間ができると今まで何していたかわからない
  • 緊張感が抜けてなく休めない
  • 休もうとしても仕事しなくてはいけないのではという不安感に駆られる

などなど、実際に様々な悪影響がでてしまっている。 こうなってしまうと、今まで築き上げてきた良い習慣や過ごし方が崩れ、戻すまでに時間と労力を要す。

忙しくしないために

やりたいことをやっているならいいが、「忙しすぎる」状態になるまえに、下記を思い出すこと。

  • 時間の価値 > お金の価値
  • 時間を消費してお金を稼げるが、時間がなさすぎると本末転倒である
  • あれもこれもはできない、見積もりはいつだって楽観的になってしまうこと
  • 仕事をなんでも背負い込みすぎない
  • 周りと協力する
  • 運動やリフレッシュなどを挟み精神をよく保つこと
    • 忙しいと後ろ向きになりがち
    • 健康が一番大事
  • 仕事と時間のメリハリをつけること
    • だらだら仕事をやると、時間がなくなる
  • 今まで築いた良い習慣が継続できるようにすること
  • 忙しさは他人が作り出すものではなく、自分で作り上げてしまうもの

年末から3月末までかなり忙しかったので、同じようなことはしないよう肝に銘じる。 同じ量仕事していたとしても、やりたいことを重点的にやれるようにする。

考え過ぎと動物的思考の狭間

動物と違い、人間は思考を言語化できるからこそ、悩みが発生するということをどこかで読んだ。人はしばしば「明日は月曜日」だと認識して絶望する。「あの人は自分よりも多くの稼ぎがある」と認識して嫉妬する。

昨日行った猫カフェに、前の片足が変に曲がってしまっている猫がいた。事故かなにかでそうなったのだろう。その猫を見たとき一瞬哀れんだが、直後、その猫は3本の脚だけで走り回っていた。楽しそうに。 その猫を見て哀れんだ自分自身こそがいじましいと自己嫌悪に陥った。

猫は刹那的に生きている。自分がどこかハンディがあるとしてもわざわざ他と比べて、落ち込んだりしない。今の状況から何をするか。それしか考えていない。 その動物的思考こそが、結局は強い。下手に小賢しいこと考える必要はない。 「ああ言ったらあの人にどう思われるかな」「こうしたら他の人からどう思われるからな」なんて思ってしまうのは愚の中の愚。自分に実直に生きる。その姿勢を思い出させてくれるから動物は好きだ。

無論、人間は人間なので、動物とちがって社会のルールなど遵守するべきことはある。「考え過ぎ」がよくないのだ。悩んだら動物と触れ合ったり、そういう思考に近い人(短絡的といいたいわけではなく、好きなことを好きにやる/やろうとする人)、と会ったりするのがいいだろう。 失敗してもくよくよしない、現状に文句を言わない。少し先の将来を不安に思ったりしない。「今の状況から何をするか。」それだけを考える。常々、前を向いていたい。

エッセンシャル思考について

エッセンシャル思考とは、端的に言えば「一点集中」あるいは「不必要なことはやらない」とも説明できる。

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私はどちらかというといろんなことをやろうとしてしまう人で、やりたいことは全部やっちゃえばいいじゃん、っていう風に思う方だけれども、実際には時間は有限であるがゆえ、できることは無限ではないし、それは言うまでもない。

全部をやるのは明らかに無理なので、やはりどうしても優先度が高いものに集中して取り組むべきだ。

器用貧乏、とはまさしくエッセンシャル思考とは対極な結果にあると思う。 私のようにいろんなことにうつつを抜かしていては何者にもなれない。

だが、実際には「不必要なことはやらない」というのはものすごく難しい。今持っているいろんなことを捨てることになりかねないからだ。 私はなかなかそれが実践できていない。不要だなと思っていても惰性で続けていること、人間関係、感情、さまざまな方面で、諦めるべきことを諦めれていない。

実践するには勇気と覚悟がいる。間違いなく、エッセンシャル思考は生きる上で正しい考えだと思う。 わかっているのにできない。もうしばらく何度か苦い思いを繰り返して、愚者らしく、経験に学んで実践に移していくしかないと悶々としている。

なぜ美しいものに触れるのか

美しいものに触れたい、美しいものを見たいというモチベーションは、多忙を極めるサラリーマンにとっては大変理解し難いものである。漸く手に入った有給という権利を行使できる日や、週末の酒の場や趣味によるリフレッシュ、そして怠惰な土日の過ごす時間などは、サラリーマンにとってはまずそれこそが非常に大切だからだ。 つまり、基本的にヒマがない、なのでヒマができたらなるべく休みたい、寝たい、というのが日本的サラリーマンの心情ではないだろうか。土日の内の片方、あるいは両方を家族サービスに充てるサラリーマンにとっては尚の事、自由な時間というのは砂漠で見つけるオアシスのようなものだ。

だが、そういった巡るめく忙しい日々を送っているからこそ、立ち止まって視野を広げるべきだ。世の中には身近な所に感動は潜んでいる。その中でもとりわけ、美しいものを見て、触れたりする機会はもっと大事にしたほうがよいと感じる。もちろん、人とのコミュニケーションの中にも感動は存在する。子供や配偶者、家族、友人、何気ない彼らと会話や、彼らの存在も、改めて考えれば実にありがたいことであり、それ自体に感動するばかりである。

それとは別に、美しいものを見て、触れて、どう思うかというのは、実に自分の内面に限った話なのである。そこに他者は基本的には介在しない。無論、その美しいものを作り上げた発信者・発案者・作成者、なんでもいいがそういう類の人間が関わっているのは間違いがないが、結局は自分がそれを見てどう思うかである。絵、音楽、オブジェ、詩、なんでもよいのだがその一端に触れ、非常に印象深く感じるもの、それこそが自分にとって美しいものである。

美しいものに触れるというのは、前述のとおり結局自分に触れるということなのである。もう一歩踏み出し、なぜそれを美しいと思うのか熟考するともっと良い。自分の本質がそこに垣間見える。何がやりたいとか、夢がないとかそういう話はどうでもいい。そういう自分にとって美しいもの、心を動かすものに触れて、自分はどうしたいのか。世間体や論理なんぞはどうでもいい、非常に主観的で直感的な、その美しさに触れることこそが大変に尊いことであり、そして自分自身を成長させる足がかりになるのである。

正直いって、人はこれなしには大きくは前進しない。そのような感動がなければ私たちは惰性的に同じ日々を繰り返すことになるだろう。生きる途中途中で、美しいものに触れることで、私たちは心動かされ、他人にとってはどうでもいいことでさえも、没頭していく。その先に非日常が待っており、新たな自分の扉を一歩を踏み出すきっかけになる。それによって私たちは同じ日々の繰り返しから脱出することができ、自分自身を知り、人生が尊いものだと気付く。忙しい、そう思うときこそ、我々は美しいものに触れる努力をするべきだ。

全体主義と個人主義

日本の全体主義、欧米の個人主義

日本人の文化は全体主義だと言っていいだろう。協調を重んじ、和を乱さず、空気を読んで生きる、という考えは個人よりも全体をとった結果だ。逆に、欧米は個人主義な人が多い(らしい。友人から聞いた)。全体に従うのではなく、自分に従い、空気を壊そうが言いたいことは、基本的に言う。これほどまでに違いがあるのは、生きている環境によるものが大きい。簡単に言えば日本人は画一的で欧米人は多様的だ、ということである。日本には欧米に比べればほとんど移民はいないし、価値観が同一なので、言わなくてもなんとなくわかるし、主義主張があっても、突飛なことは言いづらく思えてしまう。逆に欧米人は移民が多いので、もともとの価値観が違い、言わないと分かってもらえない。その差によるものだ。

日本人の個人主義

そして、日本人もどんどん個人主義的になろうとしている。なぜなら格差が生まれているからだ。前述の通り、全体主義であるにはまず価値観が同一、つまりバックグラウンドが一緒である必要がある。ステレオタイプな昭和の暮らしのように、男は仕事、女は家事、だとか、小学校から高校・大学まで必ず卒業し、そして就職したら生涯同じ会社で働く、というように。だが、言わずもがな、経済に格差が生じ、必ずしも皆が皆、同じ生活を営むことはできなくなっている。そうすると価値観が違うので、言わなくてもわかってもらえる、ということがなくなり、自分の意見を言うようになる(ちなみに日本人は主張することに慣れてないので、圧倒的にこれが下手)。空気が読めないだとかゆとり社員がどうだとかが話題になったりするのは、そういうことが発端なのである。経済格差を原因に、生活スタイルや趣味趣向、価値観が細分化されはじめた今日の日本人として、個人主義に走るのは、当然の流れなのである。

全体主義個人主義、どちらがよいか

個人主義的思想をもつ若い人だと、全体主義は悪だと捉えるだろう。言いたいことをいい、やりたいことをやる、個人主義こそが崇高な思想であると思うだろう。それは半分そのとおりだが、半分は間違いだと思う。まず、全体主義とは何か、というとあえて過激な言い方をすれば「全体のために個を殺す」ということにほかならない。個の幸せより、全体の幸せをとり、その御蔭で皆が生きていける、という発想だ。逆に、個人主義はどうか。個人主義を端的に言うと「個のためなら他の人が死んでも構わない」ということだ。自分は残業したくないのでさっさと帰り、そのせいで他の人が犠牲になろうと、知ったこっちゃない、自分は給料をもらえてるし、それでいい。と思ったりする人もいるだろう。

もちろん、自身の幸せは大事だ。しかしながら、人は支え合わなければ生きていけない種族でもある。相互扶助無くして、文化的営みは期待できない。自分だけが富を得て、他の人が全員貧乏だとする。そうすると価値観が違いすぎて友達もできず、同じ目線で遊んだり話したりできないので、孤独だ。それに、周りが貧乏だと治安が悪化してしまう。経済活動が鈍化すれば売買されるものが少なくなり、嗜好品や高級品、金を持っていれば欲しいと思うであろうものは手に入らなくなってしまう。個人主義を突き詰めれば最終的には、自身すら、不幸になるのだ。

全体主義個人主義の中間

全体主義は確かに良くないが、だからといって個人主義も良くない。我々が目指すべきはその中間である。厳密に言えば中間というよりも、全体と個、両方を考える、ということだ。なにをそんな聖人君子のようなことを、と思うかもしれないが、それほど難しい話ではない。まずは個人主義でいい。それに満足したら近しい人に手を差し伸べる程度でいい。例えば、先程の残業が嫌な人の例をあげると、残業が嫌なのでただ帰る、ということではなくて、そもそも全員が残業しないでいいように業務改善をしたり、仕事の調整をみんなで図ったりするようにすればいい。まずは自分が満たされるのを先決、としてもいいが、余裕が出てきたらその分を周りにわけ、全員が幸せになるように計らうのだ。ここで大事なのは責任を持ちすぎないこと。出来る範囲でやること。まず、自分という一人が満足し、余裕がでたら周りの二、三人のために何かする。その施しを受けた二、三人も周りのためになにかできるようになれば、自然と全体が幸せになる。無理しない程度に全体主義。周りとコミュニケーションをとってみる、というだけでも相当変わる。日々出来ることをやっていけばいいと思います。

批判に弱すぎる人へ

最近下記のような、PTAについて、入りたくないだとか、なくなってほしいというネット記事をしばしば見かける。下記の記事も数日前に投稿されたものだ。 以降、下記の記事をサンプルに話を進めるが、投稿者を批判するようなことが言いたいわけではなく、あくまで心理的側面についての分析なので悪しからず。

anond.hatelabo.jp

まず、この手のセンセーショナルな主張をする人は、他人からの「批判」に対して大変脆い、という傾向にある。

役員できないっていったら悪口 役員会議参加できないっていったら悪口 みんな同じライフスタイルじゃないんだから 専業主婦基準の平日日中なんてできるわけねーだろ

引用すると、例えば上記の部分がそうだ。「専業主婦基準の平日日中なんてできるわけねーだろ」という一文は、PTAのあり方についての主張というよりも「悪口」に対する返答に見える。そもそも「PTAはこういう問題があるのでこう改善するべきだ」「もとが欠陥なのでなくすべきだ」というようなPTAに対する純粋な主張だけならば、誰にどう批判されたかはあまり関係ない。これが冒頭部分にあるということは、恐らくこの記事を書こうとおもったのは、実は他人から批判を受け、耐えきれなかったからだと思われる。「PTAへの非難」という主張を介して、”「悪口」を言っている人がおかしく、自分は悪くない”と自己肯定するために投稿した、と私は捉えている。それが全てではないにしろ、投稿をするきっかけにはなっている。このことは、最後に「ただの愚痴と不満です、すいません」と書いてあることからも読み取れる。逆に、仮に悪口を言われなかったとしたら、このセンセーショナルな記事は書かれなかったのかもしれない。

批判に対する適性がない日本人

そもそも、日本人自体が批判に大変弱い。私は、お笑い芸人の厚切りジェイソンは、日本人に対しておかしいところをズバっと指摘するところが、小気味よく、確かに、と納得させられることもあり好きだ。だが、某有名掲示板あたりをみていると、「不満ならアメリカ帰れ」という投稿がかなりの頻度である。厚切りジェイソンは「日本のここがおかしい」と言っているだけなのであって、住みたくない、と言っているわけではない。そりゃ、住みたくない、というならば、じゃあ帰ったほうがいいのでは、とは思うが決してそうは言っていない。むしろ、これからも心地よく生活できるよう、改善できるところは改善していこうよ、と前向きな主張をしているわけである。にも関わらず、自分が住んでいる日本に対して批判があると、脊髄反射のように言い返してしまう。この例のように、批判に対して大変弱い人が多い。 日本人は協調性を重んじ、「寡黙こそ美徳」、つまり空気を読むことを大変重んじる。徹底的にそう教育されてきたと言っても過言ではない。自分と他人が同調している、という感覚が非常に大切に思う。だからこそ、非難されると大変な不安に陥る。その不安がきっかけで怒りに転じるのだ。

誰が悪いのか、という悪人探しから脱却する

このようなことも、アドラーに倣えば結局「他人からの評価を恐れるな」としてしまえば話は早いのだけども、なかなか急には難しいので、少し考え方を変えてみるだけで改善されるかもしれない。

  • まず、あらゆる主張や意見は尊重されるべきである、ということだ。批判であろうが、賞賛であろうが、同調的であろうが反対的であろうが、みな平等な意見である。そもそも、人間はみな平等である。つまり、どの人間が発した主張もみな平等なのである。言わなくてもみんな理解していることだが、それを忘れてしまうことが多いのではないか。
  • 次に、悪者探しをしないことである。他人の意見が間違っているのか、自分の意見が間違っているのか、つまり、どちらが悪いのか?ということを延々と答えを探している人も大変多く見かける。某有名掲示板でも「これって私が悪いんですかね」と他人に意見の善悪の判断を求める投稿も本当に多い。率直に言って、これは滑稽である。なぜならば、この場合、明確な答えなど存在しないからである。明確な答えがあればそもそも主張や意見はすれ違わない。言い方をかえれば、どちらも正しい(どちらも間違っていない)のである。さらにいえば、意見はあくまで意見なので、正しさを求めるものではない。批判的意見も、同様だ。自分はAだと思い、相手はBだと思う。主張や意見が違ってもどちらが一方がおかしいということはほとんどない。

自分に従う

あらゆる主張や意見は平等だしそれぞれ尊重されるべき。そして確実な正解はない。「じゃあ結局はどうするのか」ということだが、自分に従うだけでよい。自分の主張や意見こそがベターだと思うのならそれを実行したらよいし、相手の主張もきいてみて、再考の余地がある、と思うならそうしたらよい。悪口を言われて「確かにそうかもしれないな」と思うことがあれば直したらいいし、「ただの人格攻撃だな」と思うのなら何もしなければよいのである。逆に、やってはいけないことは、他人の意見を鵜呑みにすることである。繰り返すが、意見がすれ違っている時点で、確実な答えは存在しない。他人に頼ってもそれが正しい道とは限らない。だからこそ、自分で考えて自分で選択することが大事なのだ。仮に間違ったとしても、他人のせいにしなくて済み、精神衛生上非常によろしい。考えても考えてもわからなければ、あとは直感に頼るのだ。他人のために生きるのではなく、自分のために生きるよう努めるのだ。

他人の言いなりになる必要はない。ブラック企業やブラックバイトの言いなりになる人達

最近、ブラック企業やコンビニバイトに対する冷遇について、ネット上などで記事が散見される。 最近見たものだと、下記のような話がある。

コンビニ店長が高熱を出したバイトに言い放った「なぜバイトがないときにインフルエンザにかかっておかなかったの?」がパワーワードすぎる

コンビニ店長とアルバイターのやりとりを要約すると、

  • 上記Tweetをしているアルバイターがインフルエンザで高熱になり、バイトの休みを希望している(その部分は明記されているわけではないが)
  • アルバイトが勤めているコンビニの店長は、代わりに出勤するアルバイトがいなければ、休むなという。さらにインフルエンザにかかったことに対して叱責、嫌味を言う。
  • アルバイターは謝罪し、出勤する、と言う。

上記に対して、ネットユーザーの数多くは店長を非難をしている。一般的に見て、店長がおかしなことを言っているのは間違いない。だが、私は店長のアルバイターへ対する態度よりも、アルバイター自身と、店長を非難する人が多すぎること自体が、問題である、と考える。

なぜ、おかしい人の言いなりになるのか

端的にいって、ここでの一番の問題点は、「納得していないことに対して自分の意志を曲げてでも従う」ということに集約される。
このやりとりのスクリーンショットTwitterにアップしている時点で、アルバイター本人も「これはおかしい」と理解している。そして、多くのネットユーザーが非難している点を付加すると店長がおかしなことを言っているのは間違いない。にもかかわらず、店長の言いなりになるばかりか、謝罪までしてしまっている。「おかしな店長だ」という意見は数多いが、この状況こそが、最も問題である、という認識があまりにもされていないし、非常に残念に思える。

店長は「災害」だ

例えば、友人らとサッカーする予定だったのに突然の悪天候によって、それができなくなった場合、天気を非難することは、まずない(子供ならともかく)。雨が降ること自体に”ムカつく”ことはあれど、「ああ、雨がふってしまった。楽しみにしていたのに、日を改めるか。やれやれ、皆と連絡とりあわないと」となるのが関の山である。悪天候だけでなく、その他の状況や、今回のようにインフルエンザなどの体調不良になってしまっても、大体そんなものだ。我々は天気や災害、その他の「仕方のないこと」によってその都度柔軟に対応していく。
話を戻す。実は、店長のパワーハラスメントともとれる振る舞いは、受け取る方からすると「仕方のないこと」であり、雨や災害そのものなのだ。日本憲法の法の元生きている我々は、表現の自由が認められている。天皇や首相を批判しようとも、ありがたいことに逮捕されたりはしない。侮辱罪や名誉毀損罪など、他人に直接の被害をもたらすもの以外は、大抵、何を言っても自由だし、許される。だから、店長が「インフルエンザだろうと、出勤しろ」と言うこと自体は、例えおかしな発言だとしても、発言すること自体を止めることはできない(その結果、パワーハラスメントがあったとして社内的に処罰されるとしても)。 少し長くなったが、つまり他人は他人であって、天気や災害と同じで、まったく予測しなかった振る舞いや言動をすることもあって当然だと、我々は認識しなければならない。店長がどう言うかは自由であり、そして、アルバイター本人も、それに対してどう振る舞うかは自由である。急に雨が降った時、傘を差したり雨宿りするのも自由、という具合に。 店長の暴言という大雨が振ったのに、なぜかアルバイターは雨に濡れる(雷に打たれるくらいの酷な扱いだが)ことを選んでしまったのだ。

悪天候に文句を言う人はいない

雨が降っているのに、わざわざ自ら外に出て雨に濡れて、それに対して「濡れちまったじゃないか、なんで降るんだ!雨め!」と本気で声を荒げる人は、少なくとも私は見たことがない。傘を差したり雨が止むまで屋内にいるのが普通だろう。それと全く同じで、店長が「無理してでも出勤しろ」と言っていることに対して、そんなに体調が悪いのに文句を言いながら行くべきでは、明らかにないのである。まず、我々は何のために労働しているか考えてほしい。裕福に、幸せに、生きるために他ならない。死んだり、病気になったり、怪我をするために労働をするのではない。だから、上司や責任者がなんといおうと、それは自由だが、それによって自身が不幸せになるなら、それを回避するべきだ。死ねと言われて、素直に死ぬ人なんていないのと同じで、出勤しろと言われたからといってインフルエンザなのに素直に出勤するなんて、本来、あってはいけないことだ。

なぜ、無視ができないのか

この不条理に従う、というのは大変不思議であるといえる。だが、それなりに理由はあるだろう。例えば下記のようなことだと認識している。

  • 他人や自分は、それぞれ尊重され、そして自由だという認識の希薄さ
    まず、アルバイター本人は、やりとりをインターネットに晒してしまう程度には、店長の意見を尊重していない。こんな意見尊重できるか、という話ではあるのだが、その意見はあくまで、我々一般の意見から遠い場所にある意見だ、というだけであり、一つの意見であることにはなんら変わりないのである。日本人にとって、自宅に土足で上がられると大変嫌な思いをするが、欧米人にとっては普通のことだったりするように、「普通」というのは非常に揺らぎやすい。店長が非人道的なことを言っていたとしても、それはただの意見であり、それが店長にとって「普通」であり、一つの意見として尊重されるべき。そして、アルバイター自身の意見も自ら尊重するべき。「店長はそう思うのだろうが、私は無理してまでいきたくはない」と言うだけの話なのだ。

  • 短絡的な発想
    何事にも抗わないのは、短期的に見て非常に楽だ。意見を主張する、というのはお互いの意見が食い違った場合、説得したり妥協のしあいをする必要があり、一言でいって「めんどう」である。ただし、だからといって、後々負担になるのだから、常に言いなりになってしまう行為は「めんどう」の先送りでしかない。多少面倒であろうと意見をしっかり言う必要がある。相手方にとって失礼ではあるが、今回のように体調不良でそんなことをする余裕がなければ、それこそ無視を決め込んでもいいだろう。まずは自分の命を守ろう。インフルエンザは死の恐れすらある。短絡的な発想に命を奪われてはならない。

  • 視野が狭い
    他にも理由があるにせよ、一番はこれだ。まったくもって視野が狭い。コミュニティ(この場合はコンビニのバイト)に嫌われたら終わりだ、と思っている人が非常に多く、今回のアルバイターもそうだ。店長の言いなりにならなければ、クビになってしまうおそれや他の店員の迷惑になり、アルバイター本人が非難される恐れは確かにある。だが、それは実際は大したことではない。仮にこのアルバイトをバックレてしまったとしても、その影響は微々たるもので、二度とアルバイトできない、就職できない、ということはまずありえない。仮に多少晒し者にされたとしても、引っ越せば終わりだ。嫌われるのが嫌なのはある意味本能的な感情なので、理解できるが、それでも死ぬのはごめんだし、他人にインフルエンザを移すようなことはしたくない、と私は思う。

視野を広げよう

日本人は非常に視野が狭い人種だと言える。なぜかというと、大体が画一的な生き方をしているからだ。人生はこうあるべき、というコモンセンスが浸透しておりの、ールを外れることを大変怖がる。少し視野を広げれば色々な生き方があることに気づく。少なくとも、日本に生まれて育つ、というだけで非常に幸せなことなのだ。生活保護はあるし、少なくとも現時点で戦争の脅威にも巻き込まれる恐れはない。生きているだけで儲けもん、である。生まれた時点でボーナスステージ。だから、たかがちっさいコミュニティに嫌われることを、恐れてはならない。日本だけでも1億以上、世界で70億以上の人間が生きており、それらの人全員に嫌われることなんて不可能であろうから、馬が合う人、コミュニティはすぐ見つかる。愚痴るヒマがあったら、人目なんて気にせず、気楽に、好きにしましょう。

補足

精神的に追い詰められた場合は、正常な判断を下せなくなることはもちろんあり、それによって死んでしまうこともある。だからこそ、日々、追い詰められないように、他人の言いなりにならず、自分の気持ちに従うべきだ。