Think Village

日々思ったこと、気づいたことを推敲もなしに気ままに書き綴っています。

目的意識を持つことでモチベーションをコントロールする

似たようなことはしょっちゅう言ってるが...

ダイエットや英語の勉強などは、常にそれらのビジネスの需要があるのをみると、継続することに成功していない人が多いことがわかる。(自分もその一人だが...) まず、モチベーションを自体を自分で継続させることは基本的に難しい。すぐに結果が出たり、割とイージーに物ごとが進んで、やること自体が楽しくなってくればしめたものだがそういう例はレアだろう。

やはり、継続してやれるようにするには、まずはなにかしらの目的が必要だと思われる。 例えば、自分はプログラマーなのでプログラミングの勉強会などで自ら発表するようにし、それを目的にプログラミングについての勉強をする。その他についてもそういう機会を見つける。見つけれない場合は、自らそういう場を開いたりしていく。継続することよりも、コミュニティに参加したり、場を開いたりすることのほうがちょっとの勇気で済む分簡単だ。根気はいらない。だからまず目的づくりからやって、あとはなるべく「やる気」には頼らないようにしていく。やる気はやるぞと意識した時点が最も高く、あとは下がり続ける一方なので当てにならない。

仮に目的づくりすらできそうにないことがあったとしても、実はそもそもやる必要がない事柄なのかもしれない。最低限目的づくりができるコトこそが、継続できるコトになると思う。

なぜ未婚や子供なし世帯が増えるのか

個人的には金のあるなしはあまり関係ない気がしてきている。というのも、金があろうがなかろうが、価値観の多様性がそうさせていると思うからだ。 (先に言っておくが、家族や子供を持つべきではありません、ということが言いたいわけではない。)

今日では、価値観がかなり多様化しているのは紛れもない事実だろう。趣味レベルでも一昔前とは大分違ってきていると思う。例えば男なら、スポーツなら野球、娯楽は酒やパチンコやタバコというような感じだろうか。今ではそれらを画一的に男性が親しんでいるわけではない。

それと同じ理由で「家族が一番大事」「子供が好き(もしくは居て当たり前)」という概念も薄れつついくのを感じる。 まず、当の本人である自分だが、家族や子供は居てもいいと思いはする判明、そこでつかう時間を他に充てたいとも思ってしまうのも事実だ。例えば、自分はプログラマーなのでその技術の研鑽に時間を使いたかったり、あるいはビジネスに充てたかったり。余暇ではテニスに楽しんだり、そういう風に時間を使っていると、時間は使い切っていて子供が居たとしたら、どの時間を削るべきか、あまり削りたくないなぁと率直に思ったりする。

私は今の所経済的にそこまで不自由していないが、どれだけ経済的に自由でも、時間という概念は皆等しく1日24時間しかないので、価値観が多様化した現代では、家族や子供以外に時間を使いたいと思う人が増えてきてもおかしくないと思う。 みんなそれっぽい「お金がないから」という大義名分を理由としているが、実は、子供や家族にリソースを使うと他のことができなくなるから、というのが理由だったりしないだろうか。本当に「かなり子供がほしいが経済的に難しいから仕方なく諦める」という割合がどのくらいいるのか個人的に知りたい。

本当に家族や子供がほしければ、多少貧しくてもなんとかやっていける社会基盤は日本にはあると思う。価値観が多様化し家族や子供が当たり前ではなく、それよりもプライオリティが高いことをもつ個人が増えてしまっているのが少子化につながっている気がする。だからどれだけ政府が経済的な面だけを支援しようが、焼け石に水な気もしている。

逆に言えば、子供をもつハードルが下がれば解決するのではないか。1日に2時間程度子供見れば済むとか、そういうレベル。その時間の短さの実現は不可能そうだが、そのくらいの気軽さが求められている気がする。昔に比べて、子供に対して過保護になってきている(個人的感覚)のも、ハードルを上げてしまっている要因ではなかろうか。

高みを目指さなくていい。常に好奇心を持って生きる。

目標を管理することをやめた

もともと、周りにストイックと言われることがあるくらいには、時間の管理や目標の管理をしたがる自分だが、最近、少し生き方の方向性を変えていこうと思う本に出会った。

https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%81%AF%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AD%EF%BC%9F-%E3%81%8D%E3%81%93%E6%9B%B8%E6%88%BF-%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%B3-ebook/dp/B00SIM19YS

まぁ有名な本なので読んだことがある人が多いとは思う。この本に私は深く感銘を受けた。 私のように、目標を決めてそこから逆算して行動を起こそうとすると、どうしてもいかに効率よくこなすかという「効率厨」になりがちだ。効率厨になると、その過程は楽しめなくなり、結果だけを追い求めることになる。それが悪いことではないと思うが、弊害として

  • プロセスが楽しくなくなる
  • 目標以上のことを達成しにくく、可能性を狭めてしまう

ということが起きてしまうと感じている。それに気づかせてくれる良書だ。 目標と言うよりはゴールを決めるのはいいと思う。ただしそれは非常に抽象的なものであるべきだ。シンプルに「死ぬときに後悔をのこさない」というくらいの。

特に頭のいい人は、私がしてきたような目標の管理をしてしまうと思う。

今後どう生きるか

では今後どういう風にしていくかというと「あらゆることを試す」ことをしようと思う。この行動指針も本の受け売りではあるが、実際、私は他方に興味をもっているがそれらを諦めてしまうふしがある。それらに時間をとられると目標を達成できなくなるという強迫観念に捕らわれていたのだ。

そもそもなぜ目標を設定したりしていたのかといえば、人生を豊かにすることを考えていたからだと思うが、果たして人生の豊かさ、幸せとはなんなのか、改めて考えてみるとやはり地位や名誉というのは必要ないし、お金があったとしてもやりたいことがなければただの紙切れだ。人生における幸せとは、日々を過ごすこと自体が幸せであり、自分が持っているものに満足することが幸せなのである。よくある話だが、お金持ちになったけど人間関係がうまくいかなかったり、羽振りが良すぎて破産したりと、決してお金は幸せになるための道具ではない。私達の幸せは私達の考え方や生き方の中にしか存在しない。

そういう風に考えていくと、やりたいことをやりたいようにやる、というのが幸せの一つだと思うのだ。やりたいこと、というのは家を買いたいとか高級車を買いたいとかそういう消費的な願望ではなく、ささやかでいいので、「これをこうしたらどうなるんだろう」という好奇心を指す。 例えば、出勤のための道のりを少し変えてみるだけでもいいし、会う人を変えたり、いつもやらないことをやろうとしてみることだ。そういうちょっとしたことでもいいし、なるべくなら「今がより良くなりそうなこと」に手を出すのがいいと思う。例えば「こういう風にすれば会議をもっと短くできるんじゃないか」とか「こういう風にすれば売上があがるんではないか」ということを見つけ、そこに興味をもち、好奇心のままに「実験」を行うのだ。

その実験がうまくいかなくても、それは「仮説が間違っていた」という一つの答えにたどり着く。失敗ではなくそれも成功のひとつで、「実験」というのは数を繰り返し、仮説通りなのかそうじゃないのか、はたまた仮説を遥かに超える成果が起こるのか、それを見てみるための行動である。なので、うまくいかなくてもそれは決して失敗ではなく、一歩は進んだことになる。

好奇心のままに「実験」を行うのは、プロセス自体が楽しい。だからこそ、目標を達成するだけで終わろうとするストイックな考え方よりも、どうすればより良くなるか、常に考えて行動することは楽しいし、苦ではなくなるので図らずも成果が出るというわけだ。いわゆる「こだわり」という成果を出すために重要な要素もこの感覚が引き起こすものだと思う。

この記事に書こうとしたことは、「仕事は楽しいかね」に載っていることなので興味があるかたはぜひ読んでほしい。目標や時間の管理をしてきた人にとって、それを捨てるのはかなり勇気がいると思うが、私はそれを自分自身を被検体として「実験」してみようとおもう。おなじく被検体の仲間になってくれる同士が増えてくれれば心強く思う。

忙しすぎるは死のいとこ

惰眠を貪るのは非生産的。ただし(主に仕事で)忙しすぎるのも非生産的である。

忙しいとは、下記の状態を指す。

  • 「やらなければいけないことをたくさんやっている」 = 「忙しい」

文上は似たようなことでも、下記は忙しいとは違う。

  • 「やりたいことをたくさんやっている」 「忙しい」

「やりたいことをたくさんやっている」ということはそれはもはや娯楽であり、遊びであるから当人からすれば努力や我慢というのは発生しない。 目指すべきはその状態である。

忙しすぎることによる弊害

忙しいと、もちろんそれなりに充実感があるが「忙しすぎる」と、プライベートや家族との時間、自分のための時間を消耗してしまうので逆に非生産的ではないだろうかと思っている。 私自身忙しさには波があるが、忙しすぎの直後は本当に非生産的である。

  • まず、やる気がしない(燃え尽き症候群
  • いざ時間ができると今まで何していたかわからない
  • 緊張感が抜けてなく休めない
  • 休もうとしても仕事しなくてはいけないのではという不安感に駆られる

などなど、実際に様々な悪影響がでてしまっている。 こうなってしまうと、今まで築き上げてきた良い習慣や過ごし方が崩れ、戻すまでに時間と労力を要す。

忙しくしないために

やりたいことをやっているならいいが、「忙しすぎる」状態になるまえに、下記を思い出すこと。

  • 時間の価値 > お金の価値
  • 時間を消費してお金を稼げるが、時間がなさすぎると本末転倒である
  • あれもこれもはできない、見積もりはいつだって楽観的になってしまうこと
  • 仕事をなんでも背負い込みすぎない
  • 周りと協力する
  • 運動やリフレッシュなどを挟み精神をよく保つこと
    • 忙しいと後ろ向きになりがち
    • 健康が一番大事
  • 仕事と時間のメリハリをつけること
    • だらだら仕事をやると、時間がなくなる
  • 今まで築いた良い習慣が継続できるようにすること
  • 忙しさは他人が作り出すものではなく、自分で作り上げてしまうもの

年末から3月末までかなり忙しかったので、同じようなことはしないよう肝に銘じる。 同じ量仕事していたとしても、やりたいことを重点的にやれるようにする。

考え過ぎと動物的思考の狭間

動物と違い、人間は思考を言語化できるからこそ、悩みが発生するということをどこかで読んだ。人はしばしば「明日は月曜日」だと認識して絶望する。「あの人は自分よりも多くの稼ぎがある」と認識して嫉妬する。

昨日行った猫カフェに、前の片足が変に曲がってしまっている猫がいた。事故かなにかでそうなったのだろう。その猫を見たとき一瞬哀れんだが、直後、その猫は3本の脚だけで走り回っていた。楽しそうに。 その猫を見て哀れんだ自分自身こそがいじましいと自己嫌悪に陥った。

猫は刹那的に生きている。自分がどこかハンディがあるとしてもわざわざ他と比べて、落ち込んだりしない。今の状況から何をするか。それしか考えていない。 その動物的思考こそが、結局は強い。下手に小賢しいこと考える必要はない。 「ああ言ったらあの人にどう思われるかな」「こうしたら他の人からどう思われるからな」なんて思ってしまうのは愚の中の愚。自分に実直に生きる。その姿勢を思い出させてくれるから動物は好きだ。

無論、人間は人間なので、動物とちがって社会のルールなど遵守するべきことはある。「考え過ぎ」がよくないのだ。悩んだら動物と触れ合ったり、そういう思考に近い人(短絡的といいたいわけではなく、好きなことを好きにやる/やろうとする人)、と会ったりするのがいいだろう。 失敗してもくよくよしない、現状に文句を言わない。少し先の将来を不安に思ったりしない。「今の状況から何をするか。」それだけを考える。常々、前を向いていたい。

エッセンシャル思考について

エッセンシャル思考とは、端的に言えば「一点集中」あるいは「不必要なことはやらない」とも説明できる。

http://amzn.asia/3Hy4T5

私はどちらかというといろんなことをやろうとしてしまう人で、やりたいことは全部やっちゃえばいいじゃん、っていう風に思う方だけれども、実際には時間は有限であるがゆえ、できることは無限ではないし、それは言うまでもない。

全部をやるのは明らかに無理なので、やはりどうしても優先度が高いものに集中して取り組むべきだ。

器用貧乏、とはまさしくエッセンシャル思考とは対極な結果にあると思う。 私のようにいろんなことにうつつを抜かしていては何者にもなれない。

だが、実際には「不必要なことはやらない」というのはものすごく難しい。今持っているいろんなことを捨てることになりかねないからだ。 私はなかなかそれが実践できていない。不要だなと思っていても惰性で続けていること、人間関係、感情、さまざまな方面で、諦めるべきことを諦めれていない。

実践するには勇気と覚悟がいる。間違いなく、エッセンシャル思考は生きる上で正しい考えだと思う。 わかっているのにできない。もうしばらく何度か苦い思いを繰り返して、愚者らしく、経験に学んで実践に移していくしかないと悶々としている。

なぜ美しいものに触れるのか

美しいものに触れたい、美しいものを見たいというモチベーションは、多忙を極めるサラリーマンにとっては大変理解し難いものである。漸く手に入った有給という権利を行使できる日や、週末の酒の場や趣味によるリフレッシュ、そして怠惰な土日の過ごす時間などは、サラリーマンにとってはまずそれこそが非常に大切だからだ。 つまり、基本的にヒマがない、なのでヒマができたらなるべく休みたい、寝たい、というのが日本的サラリーマンの心情ではないだろうか。土日の内の片方、あるいは両方を家族サービスに充てるサラリーマンにとっては尚の事、自由な時間というのは砂漠で見つけるオアシスのようなものだ。

だが、そういった巡るめく忙しい日々を送っているからこそ、立ち止まって視野を広げるべきだ。世の中には身近な所に感動は潜んでいる。その中でもとりわけ、美しいものを見て、触れたりする機会はもっと大事にしたほうがよいと感じる。もちろん、人とのコミュニケーションの中にも感動は存在する。子供や配偶者、家族、友人、何気ない彼らと会話や、彼らの存在も、改めて考えれば実にありがたいことであり、それ自体に感動するばかりである。

それとは別に、美しいものを見て、触れて、どう思うかというのは、実に自分の内面に限った話なのである。そこに他者は基本的には介在しない。無論、その美しいものを作り上げた発信者・発案者・作成者、なんでもいいがそういう類の人間が関わっているのは間違いがないが、結局は自分がそれを見てどう思うかである。絵、音楽、オブジェ、詩、なんでもよいのだがその一端に触れ、非常に印象深く感じるもの、それこそが自分にとって美しいものである。

美しいものに触れるというのは、前述のとおり結局自分に触れるということなのである。もう一歩踏み出し、なぜそれを美しいと思うのか熟考するともっと良い。自分の本質がそこに垣間見える。何がやりたいとか、夢がないとかそういう話はどうでもいい。そういう自分にとって美しいもの、心を動かすものに触れて、自分はどうしたいのか。世間体や論理なんぞはどうでもいい、非常に主観的で直感的な、その美しさに触れることこそが大変に尊いことであり、そして自分自身を成長させる足がかりになるのである。

正直いって、人はこれなしには大きくは前進しない。そのような感動がなければ私たちは惰性的に同じ日々を繰り返すことになるだろう。生きる途中途中で、美しいものに触れることで、私たちは心動かされ、他人にとってはどうでもいいことでさえも、没頭していく。その先に非日常が待っており、新たな自分の扉を一歩を踏み出すきっかけになる。それによって私たちは同じ日々の繰り返しから脱出することができ、自分自身を知り、人生が尊いものだと気付く。忙しい、そう思うときこそ、我々は美しいものに触れる努力をするべきだ。